War Is Over

 if you want it

賢太か鶴か

図書館で借りてきた「文學界」2021年11月号掲載の西村賢太「蝙蝠か燕か」を読み返す。

ユニクロにブリーフと靴下を買いに行った帰りに駅前の本屋に寄り、西村賢太「どうで死ぬ身の一踊り」(角川文庫)が復刊されていたのを見つけたので買う。

過去に何度か読んでいるが、改めて読み返す。この文庫収録の三篇(「墓前生活」「どうで死ぬ身の一踊り」「一夜」)がやはり彼の最高傑作ではないかと思う。

上記の作品の内容から、個人的メモとして作成している西村賢太年譜を修正する。

「蝙蝠か燕か」は、今読み返すと、己の人生と藤澤清造に対する強烈な思いが込められている、非常に示唆的な作品である。

この中で、2012年ころから2018年10月初めまで交際していた女性の存在が初めて明かされている。その女性とは、さる地方都市のマンションの一室で、毎月十日間前後を共に過ごす仲だったという。賢太が連載していた公開日記にはその存在は一切触れられていない。かろうじて、賢太が先方宅に赴いたときは「帰宅」と記し、滝野川の自室に帰った際は「帰室」と書いて仄めかしていた。いずれこの生活も私小説化するつもりであった(彼女自身が賢太の小説の愛読者であり、作品化されることも十分承知していたに違いないという)。

そうすると、明らかになっている限り、賢太には私小説として作品化していない重要な題材が二つあったことになる。一つは子ども時代の父親の事件であり、もう一つが芥川賞を取った後の〈もう一人の秋恵〉との生活である。

これらを書く前に西村賢太は逝った。裏を返せば、これらのことは「書かなくてよかった」のではないか、と上記の作品を読んで思った。

ここからは、オカルトめいた話になるので、個人的妄想として容赦してほしい。

1932年(昭和7年)1月19日午前4時ころ、藤澤清造芝公園六角堂にて凍死した。満42歳3か月であった。

その21年後の1953年(昭和28年)7月7日、清造の嫂(兄信治郎の妻)藤澤つるの尽力により、七尾の浄土宗西光寺にて藤澤清造の追悼会が開かれた。地元の書画家・横川巴人ら地元の有志9名のみで行われた。その前年には、能登出身の文学者・加能作次郎の追悼式が広津和郎宇野浩二らの参集のもとで華やかに行われている。

藤澤つるは、元芸者の、色白のでっぷり太った大柄な婦人で、見た目にかなり派手な印象があったという。未亡人となり藤澤本家の近くの銭湯で働きながら貯めたお金で清造の墓標を建立した。その墓標が、1990年(平成2年)7月に墓石に改修される際に取り除かれ、菩提寺の縁の下に置かれていたのを、1997年3月に初めて藤澤清造の墓を訪れた賢太がもらい受けた。その経緯を描いたのが「墓前生活」である。

奇妙なことに、墓標が取り除かれたのと同じ月(平成2年7月)に、当時23歳の賢太は伊勢佐木町で泥酔し路上で喧嘩、全裸で駅前の舗道の植込みに倒れているところを警察に保護され、留置場で一夜を明かすという出来事があった。賢太が藤澤清造の小説に初めて出会ったのはこの頃であった。

藤澤つるが、清造の死から実に21年後に追悼会を開き、墓標に入魂の開眼をしたことは、並々ならぬ思いを感じさせる。彼女は、清造が兄夫婦の大阪の家に半年間居候して書き上げた代表作「根津権現裏」の創作の過程を間近で見ていた。

夫も二人の娘も失い、全く身寄りをなくした彼女は、既に存在する藤澤家の墓とは敢えて別に清造の墓を建立したのだが、自身は1966年(昭和41年)にかぞえ年73歳で亡くなり、遺骨は藤澤家代々の墓に収められた。

西村賢太(為我井賢太)が誕生したのは、つるが亡くなった翌年、1967年(昭和42年)7月12日であった。

勝又浩は、「どうで死ぬ身の一踊り」(角川文庫)の解説の中で、賢太の清造狂いぶりは、「藤澤清造のほうが西村賢太に取り憑いた結果なのではないのか、もしかすると西村賢太藤澤清造の生まれ変わりではないのか」と書いているが、僕の妄想は、西村賢太は藤澤つるの生まれ変わりではないのか、というものだ。

彼女は何らかの理由で生前の藤澤清造に深い思い入れがあって、彼の魂を本家とは別の墓に祀ったのだが、自分は本家の墓に入れられてしまった。

その無念を、賢太の身体で、賢太の生涯を通して晴らしたのだ。今、賢太の霊は、清造の墓の隣で、同じ台座で並んで眠っている―――