INSTANT KARMA

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私私小説

いろいろと書きたいことが浮かぶのだがまとまらないのでダラダラと羅列することにした。

まずこのブログのアクセスが昨日から若干増えていて(といっても一桁が二桁になったというレベルの話だが)、どうやら藤井風というワードで引っかかっているようだ。あと湯川れい子というワードの関連で見られているっぽい。

前からこのブログで指摘しているように、藤井風が湯川れい子別所哲也に支持されているのは音楽的なところ以外にもサイババという共通項があるからだと思っているが、そういうことをあまり表立って口にしづらい雰囲気がまだあるとしたら、そんなことをブログに書いたりしない方がいいのかもしれない。アクセス数が一桁だから何を書いてもいいと思っていたがアーチストの営業妨害になるようなことは絶対にしたくないので、アクセス数がさらに増えるようだとその関係の記事は消そうと思う。

何の影響力もない素人が芸能人について好き勝手なことをブログに書くのは素人の特権として許されると思いたいが、読んだ人にたとえ一人でもその芸能人に変な先入観を持たせるようなことは書くべきではないと考えている。だから人気商売で現役で活動している人に対して批判的なことはなるべく書きたくない。

人気商売ではない人、というよりもはや営業妨害になる心配のない人、例えば死んだ作家やミュージシャンなどについては思ったことを率直に書く。あとすでに評価が確立された大物や海外の人については遠慮することもないので自由に書く。

 

神は存在するのだろうか、ということを十代の終わりごろにひどく悩んで思い詰めたことがある。その頃は毎日、新約聖書ドストエフスキーを読んでいた。

ドストエフスキーは、例えば今ウクライナパレスチナアメリカの小学校で罪のない子供たちがなす術もなく殺されたりするのを見ると、天国への招待切符を突き返したくなると言っている。あなたが善行を積めば天国に行けるよ、と言われても、全宇宙は神の被造物であり完璧な調和を保っていると言われても、俺は罪なき子供らの無残な死と引き換えに天国になど行きたくないし、子供たちの殺戮の上に成り立つ全宇宙の調和など俺は断固拒否する、とイワン・カラマーゾフは主張している。

銃を乱射する男に襲われながら必死で助けを求める中で殺された子供や、食べる物もなく親に虐待されて死んでいった子供にとっては、「求めよ、さらば与えられん」「叩け、さらば開かれん」というイエスの言葉は嘘だということになる。

そう考えれば、やはり神はいないということになる。いや、神はいるのだが、子供たちの訴えに耳を傾けることはないということになる。そんな神は存在しても(少なくとも人間にとっては)無価値であり、無意味である。

だがこうしたことは机上の空論に過ぎない。結局のところ大切なのは、「神は存在するか」という抽象的な問いへの抽象的な答えではなく、「神は私を土壇場で救ってくれるのか」ということであり、それは土壇場になってみないと分からない。

そして土壇場になって救われなければそれはもう諦めて死ぬ(殺される)しかないのだし、救われたと感じたならそのときに初めて不信者は信仰に目覚めるだろう。

だが、救いを求める術も知らない子供たちが日々殺されているニュースを目にすると、聖職者には「神は愛なり」という言葉を撤回してもらって、十字架上のイエスと共に「神よ私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)」と叫んでもらいたいというのが正直な気持ちである。

似たようなことが、藤枝静男「私私小説に書いてあったように思う。