War Is Over

 if you want it

追悼・西村賢太

『季刊文科』第88号をネットで購入し、勝又浩「追悼・西村賢太を読んだ。

西村賢太芝公園六角堂跡」が文庫化される際に、西村は解説を勝又浩に書いてほしい、と指名してきたという。

ところが、勝又の書いた解説を読んで、西村は、これを採用せず、自分で書く、と主張し、編集者を困惑させたという経緯が述べられている。

追悼文の中では、その不採用とされた芝公園六角堂跡」の文庫解説が全文引用されている。これを読めば、何が西村の逆鱗に触れたかは明らかである。

収録の一篇「終われなかった夜の彼方で」で、主人公(北町貫多=西村賢太)は、藤澤清造の書簡を落札するためにケタ違いの高値をつけて、自身の藤澤信仰のゆるぎないことを確かめようとしているが、これを厳しく見れば、それがいくら全財産をはたく覚悟の行動だったとしても、結局はわが信仰、わが仏のために豪壮華麗な寺院を寄進するようなものではないか。いつの日か、そういう反省の日も来るのではないか、と勝又は書いた。

これは、自身の、血を吐くような思いで書いた信仰告白たる作品に対して、その信仰そのものが有体に言えば一種のポーズのようなものにすぎないのではないか、とケチをつけられたようなものだから、たとえ恩人たる批評家の書いたものでも、到底許せない言いがかりである、と西村が受け取ったのもやむを得ないだろう。

だが、一読者としては、勝又の批評にも一理ある、と頷かざるを得ない。

この作品「芝公園六角堂跡」には、いつもの北町貫多の独り善がりの「没後弟子」ぶりが、とりわけ連作の後半に行くにしたがって、〈空回り〉している感がなきにしもあらず、なのである。

これは、「人様に読んで頂く目的は一切ない。…すなわち、アマチュア気分の“いい気な愚作”に他ならない。そんなもの、商業文芸誌に原稿料をもらって発表するな、といった類のもの」と作者自身が認めているとおりで、いつもの西村作品の、読み手に対する心配りがなく、完全に読者を置き去りにした〈独り合点〉ぶりが際立っているのである。読者への心配りがないというのは、単にいつもの北町貫多お得意の罵倒表現や性的あるいは暴力的な描写が一切ないということだけではない。もっと根本的な姿勢に関わるものだ。

勝又は、追悼文の中では、先の文庫解説よりもさらに踏み込んでこの作品を批判している。すなわち、どだい反省は結構だがそれを書いて見せるということには別の落とし穴もあって、えてして本人が真面目真剣であればあるほど裏返された自己弁護や自尊驕慢が出てしまう。この作品もそうした陥穽を免れていない、と。

この批判も的確なものに思える。

勝又は、自分の書いた解説が不採用という無礼な扱いを受けたとき、不思議と腹は立たなかったという。上記の、西村が激怒したであろう一節は、削除せよと言われれば削ってもよかったのだが、直せ削れではなくて没だというのは、何とも彼らしいやり方だと他人事のように思ってしまって、怒るような気分にはならなかったのだと。

ここまではよい。しかし勝又の次の文章に首を捻った。

勝又は、いつの日か、西村とまた話すような機会があれば、このことをゆっくり話題にしてみて、そのときは彼の方もさらに成長して、自分の言わんとしたことに気づくかもしれないと考えていたというのだ。

先に、一読者としては勝又の批評にも一理ある、と書いたが、勝又のこの表現を読んで、さすがに傲慢さを感じずにはおれなかった。西村賢太は、このような批評家による「もっと成長すれば俺の言うことも分かるだろう」という〈上から目線〉の物言いに対して、それこそ生涯を賭して、全力で抗ってきたのではなかったか。

藤澤清造の生前の不遇を己がものとして実感し、その無念を引き受ける、という悲壮な覚悟を文筆生活の、否、生きることの唯一の支えとしてきた作家、否、人間に対して、「もっと成長すれば俺の言うことも分かるだろう」とは、西村にとってはこの上なき侮辱でしかあるまい。

この後の、勝又の締めくくりの言葉を読めば、彼が西村のその姿勢を十分に認め、評価していることが分かるのだが、おそらく西村は、この表現のみをもって、勝又の追悼文全体を唾棄し、破り捨てるに違いない。

(以前の対談でも、勝又は西村に対して、小島信夫を読むように強く勧めていたが、西村はきっと勝又に従って小島信夫を読むことはなかっただろうし、仮に読んだとして小島の私小説には何の感銘も受けなかったに違いない。二人の作家性は根っから違うからだ。そのへんにも勝又の傲慢さみたいなものを感じたことがあった。)

しかしながら、西村賢太は、その最晩年に、作品中で何度も、己の清造に対する思いが空回りしているのではないか、畢竟自分のために清造を利用しているにすぎないのではないか、との自問自答を繰り返し、そのトーンは深刻で陰鬱な色合いを強めているのも、一方では確かなのである。

「蝙蝠か燕か」の終盤、貫多は、藤澤清造の追影に人生を棒に振る決意を固めた次の瞬間、自分のこうした活動や清造喧伝は、果たしてその人の役に立っているのだろうか、との根源的な疑問に捉われる。この自問に鮮烈で異様な衝撃を受けた貫多は、ただ棒立ちの状態になって瞑目するのである。

そして、遺稿となった「雨滴は続く」の最終回、貫多は、「群青」元編集長の菱中から次のような指摘を受けて打ちのめされる。

「こんなのは、藤沢清造という余り有名じゃない作家を持ち出してきて利用した、昔風の私小説の下手なパロディーに過ぎない、って言ってる人もいる」

これを聞いた貫多は、怒りよりも先に、目の前が真っ暗になるような衝撃を受ける。

そして、自分ではその人の名を汚さぬように奮闘を重ねているつもりでいたが、傍らから見れば単に無名の存在を持ち出してきて利用しているに過ぎないと映っているのなら、もう自分はとてもではないがこの世にいることはできない。死んで詫びるより他はない。結句存在自体消え去るより他はないーとまで書いている。

そのあとで、こんな風に書く。そのまま引用する。

衝動のあとに突き上げた怒りのエネルギーを、生来の負け犬ゆえの意地に同化させなかったら、その時点で自身の”恥”の感情に促され、的外れの讒謗に屈し、平成十四年の段階ですでにして建立済みの、能登七尾の藤澤清造墓の隣りの小さな石碑の中に、壺に入れられ収納されていたかもしれなかった。

何んとも暗示的な文章だと今読むと感じずにはおれない。

この項続く