War Is Over

 if you want it

私のいない世界には私はいない

私小説に関してちょっと思ったことを書く。

よく高齢者などが、自費出版で「我が人生を振り返る」みたいな自伝を出版するケースが多いと聞く。

そういうのは、ほとんどが「私の人生を知ってほしい」とか「私の生きざまを伝えたい」という動機からだと思う。

しかし、厳しいことを言えば、「私のことを知ってほしい」という動機で書かれたものは〈私小説〉にはなり得ない。

これは優劣の問題ではなく、表現としてのカテゴリーの話かもしれない。

もちろん「私の人生を伝えたい」という自伝にも立派な、世に広く読まれるべきものはたくさんあるだろう。

だが、〈私小説〉というのは、逆説的だが、「私なんかどうでもいい」という視点で書かれたものでないと成立しないのだ。

西村賢太や、川崎長太郎は、「己の生きざまを伝える」ために小説を書いたのではなく、「自分」を素材にしてどれだけ面白いものが書けるかを追求していっただけだ。

(まあそれを突き詰めていけば結句「己の生きざまを伝える」ことになるのかもしれないが。)

岡田睦の晩年の小説は、独居老人のありのままの悲惨な生活を伝えるものではあるが、〈そのために〉書かれたものではない。そこには己の生と死を悲観も楽観もせずに、ただあるがままに見つめる透徹した眼差しがある。すぐれた私小説には例外なくそれがある。

私小説の両義性というか、面白いところは、先に述べた「私なんかどうでもいい」という視点と同時に、「私以外はどうでもいい」という強烈なエゴイズムが同居している点にある。

この「私はどうでもいい」という透徹した視点と、「私以外はどうでもいい」という強烈なエゴイズムの相克が私小説の一つのダイゴ味であると思う。

このことについて西村賢太は、「凶暴な自虐を支える狂い酒」(「en-taxi」第28号、平成21年12月)という随筆の中で、葛西善蔵藤澤清造田中英光川崎長太郎、嘉村磯多などを巡って興味深く論じている。こういう評論めいた文章は彼の中では割と貴重だと思う。