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「室戸岬へ」と「野狐忌」

国会図書館から西村賢太が「田中英光私研究」に発表した二つの小説の写しが届いた。

室戸岬へ」「野狐忌」である。

室戸岬へ」は、「田中英光私研究第七集」での、田中の全集未収録の小説「室戸岬にて」の発表に合わせて書かれたもので、西村自身がその小説の舞台となった高知県に向かい、室戸岬の宿に滞在し、当時を知る人々の関わりを辿って、かの小説が田中自身の体験に基づいて書かれたものか、室戸への滞在はいつだったのか、などを探ろうとする旅の経験を綴った手記の体裁をとる作品である。

「野狐忌」は、田中英光の命日(十一月三日)に、青山の田中の墓、田中がその前で自らの手首を切った三鷹太宰治の墓、田中が亡くなった井の頭病院を順繰りに巡るという行動を「野狐忌」と名付け、単身それを営むという話が発端となっているものの、本題はむしろ彼(北町貫吉)が営む古書業の同業者で、普段世話になっている先輩たちとの交流(トラブル)を描いた部分にある。

これらの作品が重要なのは、というより興味深いのは、西村賢太が(自らの発行する非商業ベースの冊子上とはいえ)初めて発表した「小説風の文章」であるだけでなく、未だ彼が藤澤清造と本格的に出会う前(「没後弟子」と名乗る前)の作品だという点にある。

つまり、後に作家として立つ西村賢太の小説の特徴である、藤澤清造譲りの戯作調めいた文体の影響は見られない。いや、後述するとおり、見られない、と断言するほど皆無ではないのだが、少なくとも西村賢太私小説の黎明期の文体といったものがここにはある。

そして驚くのは(実際のところは驚きでもないのだが)、すでにこの時点で西村文学のスタイルが、ほとんど完成に近い形で提示されているということだ。彼の実質的な処女作である「墓前生活」(2003年)の7,8年前(これらの作品が書かれたのは1995年と1996年)にはもうこれだけのものを書いていたのである。

事実、これらの小説は、発表当時に保昌正夫福田久賀男といったプロの文学目利きたちから注目されている(「文學界」七月号、朝日書林・荒川義雄氏インタビュー「西村君との三十余年」)。西村が同人誌「煉瓦」に参加でき、文芸誌デビューできたのもそれらの人々の評価の後押しがあったればこそと考えれば、やはりこの二つの小説には既にして光るものがあったということだ。

つづく