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「野狐忌」

西村賢太田中英光私研究 第八輯」に収録された小説「野狐忌」は、今振り返ると、西村の生涯の一つの時期が終わる直前に書かれた、文字通り記念碑的な作品といえる。

この小説で最も重要な部分は、最初のほうにさりげなく書かれた箇所で、西村はたぶんその部分を書くために「野狐忌」を書いたのだとぼくは思っている。「『暗渠の宿』という小説は、某作家への批判を書くために組み立てた」と語った彼のことだから。

彼はこの小説を発表した直後に、田中英光の遺族とのトラブルから、その研究の道を断念するに至った。それは彼がのちに繰り返し書いている。

西村によれば、遺族のかたに酒の席で無礼を働き、出入り禁止になったということだが、おそらく話はそれほど単純ではない。

すでに室戸岬へ」の感想の中でも書いたが、西村が田中英光から離れた理由には、いくつかの要因が絡んでいると思う。その最大の要因は、在野の研究家としての西村が、既存の(一種の「既得権益」たる)研究サークルとの間に「越えられない壁」を感じたというところにある。

「野狐忌」という作品は、時系列が入り組んだかたちで、いくつかのエピソードをつなぎ合わせて書かれている。西村はのちに小説家として作品を書く際には、あらかじめシノプシスをつくり、物語の展開をかなり細部まで組み立てたうえで下書きに臨んだ。「野狐忌」もそのようにして書かれたに違いない。そう思わざるを得ないほど、非常に精緻な構成をもつ作品である。

(もっとも、少しエピソードを詰め込みすぎの感はある。小説家になった後の西村なら、この作品から別に五個くらいの短編を書くことができただろう。)

先に述べた、西村が最も書きたかったと思われるエピソードは、序盤に出てくる。

一昨年(小説の時系列では一九九三年)横浜のデパートの貸ホールのようなところで、田中英光(小説中では坂本英洸。以下同じ)の展示会が開かれた。主催は「いわゆる無頼派作家の研究サークル」で、西村(小説中では貫吉。以下同じ)も自ら申し出て田中英光の原稿などを出品していた。

西村は、英光の忌日にあたるその最終日にも出かけてゆき、講演や対談の終わったあとの自由参加の懇談会にも出席した。愛読していた田中英光論の作者たちを目の当たりにして興奮した西村だったが、懇親会の費用を主催者に渡そうとするも苦笑まじりに断られ、二次会にも誘われないまま終わるなど、彼にしてみればひどく屈辱的な扱いを受ける羽目となり、結局ひとりションボリと帰るだけに終わった…という苦い思い出が綴られている。

このときに西村の感じた疎外感には、かなり深刻なものがあったと思う。田中英光の言葉に準えれば、「田中英光は信じるが、彼の研究者たちは信じられない」という思いを抱いたのではないだろうか。この出来事があったのが一九九三年十一月で、西村が『田中英光私研究』を自費刊行し始めたのは翌年(一九九四年)一月からである。

そしてこのエピソードを「私研究」の最終号で書いているということも、何か意味深く思われるのである。

作品の最後の、世話になっている古書店主の知り合いの文学者(金井雄造)を訪ねるくだりからも、既存の「文学サークル」に対する敵意と反感を感じるのは、些か穿ちすぎた読みであろうか。

つづく