War Is Over

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「野狐忌」2

1993年に西村が参加した田中英光展を主催したという「いわゆる無頼派作家の研究サークル」というのは、1990年に朝日書林から「仮面の異端者たち : 無頼派の文学と作家たち」という本を出版している「無頼文学研究会」という団体のことではないか。但しこの催しが実際にあったののかどうかは確認できない。

「野狐忌」の主要な登場人物の一人である古書店主のモデル、朝日書林の荒川氏は、西村との関わりをこんな風に語っている。

(西村と)口をきくようになったのは「田中英光私研究」を出し始めたころからかな。「私研究」を持ってきて、私の知り合いにどういう人がいるかを聞いて、その人たちに贈ったりしていました。なけなしの金で少しずつ資料を集めて、独学でやっと自分なりの希望、光を見出した。十分頑張ってやっと実績をつくったと思ったんだろうけど、在野だから、研究者たちは認めてくれない。彼はそれがすごくショックだったんじゃないかと思います。(「本の雑誌」2022年6月号)

荒川氏はこれに続けて、西村が田中英光展への参加を断られて、それまで収集した資料を全部処分したという旨の発言をしていることから、遺族とのトラブルというのも、やはり西村が田中英光の研究者たちから排斥されているという意識を持っていたことが遠因となったのではないかと思われる。

小説「野狐忌」を収録した「田中英光私研究第8輯」を出したのが1996年11月、田中英光の長男・田中英一郎氏に狼藉を働いて遺族から出入禁止を宣告されたのは、おそらくその直後である。

そしてその直後にまた別の暴行事件を起こして逮捕・起訴(略式起訴)され、罰金20万円の刑を受けた。これがたぶん西村賢太の人生における最悪の時期で、数少ない知人からも見放され、内面的にも外面的も荒み切った状態にあった。

この時に西村を支え続けてくれたほとんど唯一の存在が、朝日書林の荒川氏であった。警察に勾留中の西村に面会に行き、日用品やら漱石の文庫本五冊と藤沢周平の「用心棒」シリーズを差し入れた。西村はそれを夢中で読んだ。この折は、結句「坊ちゃん」に最も強く慰められたという。

荒川氏がここに至っても西村を見放さなかったのは、彼自身のとことん面倒見のいい性質に加え、別の理由もあった。

(荒川氏の無私の人柄を示すエピソードは、西村とは関係のない出来事を巡るこのような記事の中でも描かれている。村上芳正コレクションの行方

「野狐忌」を読み、西村の才能とその危うい資質を見抜いた文学評論家・保昌正夫が「あいつは化ける素質があるが、放っておくと転がる。誰か見ている人がいないとダメだ」と言うのを聞いて、荒川氏は西村を「拾ってやる」と決めたのだった。

以来三十年以上、死の当日に至るまで、そしてさらにその後始末まで、荒川氏は西村の面倒を見続けることになったのである。

そんな《恩人》のことを、西村は小説の中でどんな風に書いているのか。

北町貫多シリーズの読者ならよくご存じのとおり、大概にせえよ、という位のぞんざい極まりない扱いである。「野狐忌」もその例外ではない(荒川氏に連れていかれた、ホステス達のいるクラブでの貫吉の振る舞いと狼藉は、その後の西村作品には出てこないタイプのもので新鮮だった)。

だがその一方で、読者が荒川氏(小説では新川氏)に持つ印象というのは、ほとんどご本人のイメージ通りの、お人好しなくらいに面倒見の良い、奇特な好人物となるようにできてるのだ。

新川氏だけでなく、〈秋恵〉にせよ、〈おゆう〉にせよ、〈葛山久子〉にせよ、貫多の暴言の対象となるキャラクターは、いいところも、ちょっと足りないところも含めて、好人物に描かれている。相対的に見れば、いつも一番悪いのは貫多に決まってるのだ。

この<自分を一番低いところに置く>という書き方は、西村の好きな落語の世界観を思わせるし、実は西村の私小説のスタイルに最も影響を与えているのではと思われる、川崎長太郎譲りのものかもしれない。もちろん田中英光もそうだった。

あと三十年も経ち、中身は余り成長してないくせにすっかり頭髪も薄くなった頃…「若い頃のお父さんはな、ずいぶん坂本英洸にかぶれたものよ」なぞ、遠くを見つめる目付きで言っているかもしれない。

しかし、貫吉はそんなことを言っている自分の姿は、あり得ないと思う。また、死んでもそんなフヌケにはなりたくない。男一匹、死ぬ気で猿真似すれば、大言壮語はあながち壮語でなくなる。猿真似もひとつのオリジナリティーに進化する。気違いと言われたって糞食らえ、もしかしたら坂本英洸に逢えるかもしれぬ。その世へ行くときまで、何とか英洸さんに恥ずかしくない生き方をしてやる。まだ、間に合わぬことはないはず。

これほど傾倒した田中英光から離れざるを得なくなり、四面楚歌の状況になった西村賢太が縋りついた先は、小説家として報われぬまま悲惨な最期を迎えた大正時代の文士であった。

だがそれはまた別の話である。