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Photographs

このところ自分でも意味の分からないままに熱中していた、西村賢太の日記(一私小説書きの日乗シリーズ)の抜粋を打ち込むという作業をようやく一通り終える。
この間も毎日西村賢太についてブログに記事を書いており、ほとんど「寝ても賢太、覚めても賢太」状態になっている。マニアックな作家に魅入ってしまうと自ずとマニアックになってしまうものか。元々自分もマニアックな体質なのでそうなるのか。

単行本未収録の小説、「写真」(『文學界』2016年8月号)、「黄ばんだ手蹟」(『文學界』2018年1月号)、「人糞ハンバーグ或いは「啄木の嗟嘆も流れた路地」」(『文學界』2020年2月号)の掲載誌を図書館で借りてきた。

せっかくなので、感想を書きたい。ネタバレするので未読の方は要注意。

 

「写真」

この作品の掲載された『文學界』2016年8月号は、「異色短編特集<怪>」と銘打って、八名の作家による短編作品が並んで掲載されている。

参考までに、その作家陣を挙げておくと、

松浦寿輝/西村賢太/藤野可織/小山田浩子/木村紅美/福永信/澤西祐典/高山羽根子 

この並びは目次の記載に倣ったものだが、実際の掲載順とは微妙にズレている。

編集上の理由なのかよく分からない。細かいしどうでもいいことだが、単独で読むのではなく掲載誌で読むときのメリットというか醍醐味がこういうところにある気がするので記しておく。

ちなみに、西村賢太の作品は、目次でも実際の掲載順でも特集二番目である。

三十枚の短編(「一私小説書きの日乗 新起の章」2016年6月23日)。

時期的には、「文學界」の「雨滴は続く」の連載に取り掛かる前に書かれたもの。

この後、「雨滴は続く」の連載を除くと、翌年7月まで西村は小説を発表していない(「青痰麺」、『群像』2017年8月号)。

さて、内容だが、夏の怪談的なもの、というテーマに合わせた、一種の心霊写真もの。

とはいえ、体裁はまったくいつもの〈貫多もの〉である。

話は、貫多が「小説現代」(作中では「小説現在」)の連載(作中では明示されていないが「誰もいない文学館」のこと)の第一回「根津権現裏」に添付する書影写真を編集部に送るために探すところから始まる。

六畳部屋の清造資料用ガラス付キャビネットの中に目当てのプリントを見つけると、その奥に白い封筒があるのに気づく。久方ぶりでその中身を確認したくなり、六畳間からリビングに引き返して、封筒からプリントを取り出す。

十数年ぶりかで眺めるその写真。思わず、そのとき同棲していた女(秋恵とは明示されず)のことを回想する貫多であった。

初期の頃の「秋恵もの」とは異なり、作家・北町貫多が曩時を振り返るというかたちで、いわば二段階の時制になっている。これは翌年の「青痰麺」と同じ構造である。

読み比べてみれば、「青痰麺」はこの「写真」の発展形といえる作品となっている。作家西村が私小説という限界の中で新しい可能性にチャレンジしていたことが分かる。

秋恵との回想の中身は、清造の横に建てる自らの生前墓の改修工事の様子を写した写真が、オレンジ色や白色の発光物が映り込んでいるような奇怪な仕上がりになっていたのを、秋恵が心霊写真ではないかといって怖がる、といった、特段怖くもなければ笑えもしない、言ってみれば他愛のない話だ。

この小説のポイントはやはり最後の部分にある。

これが心霊写真だとした場合、撮影した側にも災厄が降りかかる場合があるのでは、と考え、この三,四か月後に秋恵が男を作って遁走したことや、墓の工事を手掛けた石材店社長の一村が撮影から一年以内に突然死したことやらを思い浮かべる。

だが貫多の場合は、この後に私小説を書いて生計を立てる成り行きとなった。

これは幸運といえるのではないか、と思ったとき、貫多はふと何か割り切れないものを感じる。

そのあたりをありをいくらあれこれと考えたところで、どうでそれはどこまでいっても詮ないことに違いなかった。

と貫多がそれ以上思いを巡らせるのを放棄して作品は終わるのだが、ここには清造の没後弟子たる自分についての例の自問自答の萌芽が見られる。

ここで打ち切られた思考は、引き続き後の作品(「廻雪出航」「蝙蝠か燕か」「雨滴は続く」)でも繰り返し持ち上がり、執拗に西村に対して回答を迫り続けるのだ。

 

さてこれは西村の小説とは関係ないのだが、「文學界」のこの号には石原慎太郎の「いつ死なせますか」という小説も掲載されている。西村が尊敬する小説家と常々公言していたので、この機会に初めて彼の作品を読んでみた。

一読して、このような人物が東京都知事という公職を長年勤めあげたことには苦々しい思いしか抱かないが(この小説が津島祐子の遺作「狩りの時代」の直後に掲載されているというのも皮肉な話だ)、西村賢太が次のように評したことは理解できるような気がした。

この無神経なまでに堂々としたヘタウマ文章がたまらない。英光、長太郎、大河内、そして石原慎太郎と、自分の好きな小説家の文章は、いずれもこの点で共通の深い魅力をもっている。自分が憧れつつも決して真似ることのできない、八方破れな捨て身の文体の輝きだ。(「一私小説書きの日常 憤怒の章」2012年8月10日より)