War Is Over

 if you want it

Yellowed Handwriting

黄ばんだ手蹟(『文學界』2018年1月号)

「陋劣夜曲」(『群像』2018年1月号)の下書きを終えた2017年11月21日の深夜の場面から始まる。ほっとして部屋にある清造の額を眺めていると、18年ほど前に作った扁額の中の書簡がずり落ちてしまっているのに気づく。

ずり落ちていることよりも、そのことに今まで気づかなかったことに駭魄する貫多。

で、話はこの扁額製作の顛末へとつながるのだが、それは細々と記すまでもないような他愛のないものである。

 

人糞ハンバーグ或いは「啄木の嗟嘆も流れた路地」(『文學界』2020年2月号)

中学卒業の二日後に住み始めた鶯谷のアパートから初バイトである本郷の旅館に行ったときの話。

 

この二編については、特にコメントするようなところはない。

昨日見つけた、大江健三郎のこの文章が頭に浮かんだ。

これは単にぼく個人の固定観念にすぎないかもしれないが、それがどのように円満な永い作家生活をまっとうするタイプの作家であれ、ひとりの作家のもっとも美しい作品は、その作家生活のはじめの数年に書きつくされてしまうのではないかと、ぼくは考えている。短編小説においてとくにそうだ。考えてみれば、結局技巧的な成熟などというものはたいしたことではない。短編小説の技術についていえば、それが、本当に良い作家なら、かれは数篇の習作のあと、その深いところにひそむ核心にすぐさま到達してしまうものだ。
そこで、生涯のいちばん美しい小説群を書きおえて夭折する作家はつねに、決して早すぎる死を選んだことにはならない。むしろかれは、もっとも幸運なタイプの作家なのだ。しかし、その死の最上の時を生きのびてしまえば、かれは、他のあらゆる職業の実際生活者とおなじく、忍耐しながら孤独に、勝敗のうたがわしい困難な戦争をつづけるほかない。……

(「石原慎太郎文庫1 解説」大江健三郎