INSTANT KARMA

We All Shine On

『狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅』

『狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅』(中澤雄大著、中央公論新社、2022年4月)を読んだ。

完成まで十一年余りの年月を要したという、六百頁に及ぶ力作評伝。

妻・喜美子さんから預かった生前の大量の書簡を精読した成果が十分に活用されているだけでなく、ご遺族をはじめ、作家の友人、知人、出版関係者などへの膨大な取材に裏付けられたディテールが圧巻である(筆者は全国紙の記者であり、この評伝を書くために辞職して退路を断ったという)。

待ちに待った刊行であり、その期待に応えて非常に面白く、大著にもかかわらず没頭して一気に読んだ。

言及したい箇所すべてに触れているとキリがなくなってしまうので、どうしても触れたいポイントに絞って感想を書きたい。

佐藤泰志は、中学生の頃には作家になろうと思い、北海道函館西高校在学中には、北海道の文芸賞優秀賞を連続受賞するほどの早熟な才能を見せていた。

十五歳のときに書いた「青春の記憶」という小説は、講談社文芸文庫「戦争小説短編名作選」にも収録されているが、中国戦線で捕虜の兵士の殺害を命令される少年兵を描いたくだりが某同人誌評者から〈田中英光「さようなら」を盗用ぎみにとりこんでいる〉と評された。

後年、批評家の清水義典も、佐藤の「もうひとつの朝」という作品が、自分が同人誌に発表した小説に類似していると指摘した。

これらの「盗用疑惑」がいずれも根拠薄弱なものであり、決して「盗用」のレベルではないことは評伝の中で明らかにされているが、佐伯一麦も本書の中で「佐藤泰志の作品はコラージュが多い」と指摘しているように、なんかこう、「誤解を受けやすい作風」ではあったのかもしれない。これとつながることかもしれないが、彼の作品のタイトルには、「きみの鳥はうたえる」をはじめとして既存の作品の引用が多い。

話を戻すと、高校時代に書いた優秀賞二作目の「市街戦のジャズメン」は地元の文学界に衝撃を与え、北海道で文学を志す若者の間で佐藤泰志という名前は、スターのように輝いて見えたという。

「北方文芸」に作品を書き始めていた、のちの直木賞作家・藤堂志津子(熊谷政江)は、著者の取材に応じて、当時の佐藤からストーカーまがいの猛烈なアタックを受けたことを率直に語っている。この藤堂のインタビューは本書の中でも白眉といっていい箇所の一つで、佐藤泰志というピュアで痛々しい人間の本質をものの見事に見抜く内容になっている。

藤堂は、優秀賞を二年連続でもらったことが結局よくなかったのではないか、と述べているが、自分も同じ印象を持った。作家にとって(だけではないかもしれないが)、余りに若くして才能を認められすぎるのは決してよいことではない。

彼は二浪して国学院大学文学部哲学科に入り上京するが、二十一歳のその時点では遠からず一流作家の仲間入りをすることに疑いを抱いていなかったように思う(中学校の文集では、四十までに芥川賞を取り、六十代でノーベル賞を取ると豪語していた)。

それが、思うようにいかず、中央の文芸誌デビューは二十八歳のとき、1977年6月の「新潮」に掲載された「移動動物園」だった。この頃には、生活の行き詰まりから自律神経失調症に罹り、投薬治療とランニング療法を行うようになっている。編集者から再三にわたって原稿の修正を要求されることにも苛立ちを募らせていたようだ。

上京して早々に同棲生活を始め、アルバイトも不器用で続かず、家計は妻のパート仕事に頼り、北海道の実家からの支援に頼っていた。両親は函館で担ぎ屋をして厳しい肉体労働の生活に耐えながら泰志と妹・由美を養ってきていた。

七十年代の政治の季節の名残りにも巻き込まれながら、ある意味典型的な文学青年の軌跡を辿っていた。だが佐藤の場合、只のいわゆるワナビではなく、豊かな文学的才能は疑いようがなく、才能を持て余していたと思える。ピュアで、不器用で、野心が強く、燃えるような小説への情熱が期待したような反応を得られず、精神の安定を失って生活が乱れた。子供ができてからも色々な女性にアプローチすることをやめなかった。妻へのDVもあり、自殺未遂もあった。

文学賞の候補に選ばれながらも受賞には届かないことの繰り返しが、酒と精神安定剤に頼る生活に拍車をかけた。佐藤は五回も芥川賞の候補になっているが、結局受賞はできなかった。この時代は、のちに有名な作家になる人たちが数多く候補に挙がりながら「該当作なし」が続くという異常な時期でもあった。これは時代の不幸ともいえる。

彼が作品を書いていた八十年代は、〈ポスト・モダン〉が吹き荒れ、「近代文学の終焉」が叫ばれ、小説家を志す人々にとって「書きにくい時代」だったという。テクスト論や物語批判が幅を利かせて、骨太さと抒情性を兼ね備えた正統派の作品を書こうとする佐藤のような作家は過小評価される傾向にあった。これも時代の不幸といえるだろう。

三島賞での中上健次の政治的な振る舞いや、最後の芥川賞のときに佐藤が安岡章太郎に電話して激怒されるなどの裏話も、作家の人生を狂わせる「文学賞」の残酷さについて考えさせられる。

この評伝の素晴らしさは、佐藤泰志のネガティブな側面にも向き合い、取材を重ね、佐藤自身が妻や友人にも隠していた交際女性からきっちり詳細な証言を得て書き記していることだろう。えてして、最も鋭い批評は彼女らの口から飛び出るものである。

藤堂志津子が佐藤の弱点を鋭く見抜いたのと同じく、佐藤と付き合ったある女性はこんな風に語る。

中澤さん(評伝著者)に会うとなって、作品集を拾い読みしたんですけど、読むうちに息苦しくなるし……泰志さんの小説は抽象化できていないし、地べたを這うような事実そのまんまなんですよ。

それは別に書かれても、こちらは全然平気なんですけど、ただ、小説家としては全然駄目ですね、どう考えても創作になっていませんもん。ある程度、自分の所から離れて、ものを見ることができないと、本当は書いちゃいけないんですよ。だから泰志さん、小説家なんか、やめてしまえば良かったのに。私が『やめちまえっ!』って言えば良かったんでしょうかね。でも、言ったとしても無駄だったでしょうねぇ。やっぱり言えなかったと思うし、あれだけ強く思い込んで、独りで突っ走っている感じでしたから。もう小説家になって、とにかく認められたかったんですねぇ

松村雄策は、佐藤泰志のことを、青春小説の名手として評価していた。

彼の死から二十年以上経って再評価され、映画化された「きみの鳥はうたえる」や「そこのみにて光り輝く」といった作品は、閉塞感漂う時代に生きる若者たち、つまり今の人々に強く訴えてくるものを持っている。

彼の最高傑作は、多くの人が認めるように、当初の予定の半分で未完に終わった「海炭市叙景」だと思うが、そこでは人間の生きていく基本の姿が描かれていて、イデオロギーが無効になった後の、つまり今の時代に響いてくるものがある。

佐藤泰志の小説は、これからも読み継がれていくだろう。

この力作評伝には、生命を削って書いたそれらの小説の生み出された軌跡がなまなましく息づいている。

最後に、勝手なことを言えば、せっかくなので佐藤泰志の詳細な年譜と全作品のリストを巻末に入れてほしかった。

 

追記:ネットで見つけた中森明夫の書評がよかった。

www.hokkaido-np.co.jp