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芥川賞と西村賢太

第167回芥川賞直木賞日本文学振興会主催)の選考会が20日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は高瀬隼子(じゅんこ)さん(34)の「おいしいごはんが食べられますように」(群像1月号)、直木賞窪美澄さん(56)の「夜に星を放つ」(文芸春秋)に決まった。

 

ぼくにとって芥川賞といえば、やはり西村賢太である。しかし、ぼくにとって西村賢太といえば「苦役列車」ではなく、その前の候補作である「どうで死ぬ身の一踊り」であり、「小銭をかぞえる」である。

さらにいえば、当初は随筆作品として単行本に収録されたがのちに小説として文庫版「無銭横丁」に収録された「一日」であり、また「苦役列車」の単行本と文庫本に併録された「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」である。

 

西村は自ら「芥川賞の恩恵を最も受けた作家」だと語っている一方で(「大竹まことのゴールデンラジオ」出演時)、「自分以降の芥川賞なんてものはもう意味がない」という理由でプロフィールから「芥川賞受賞」を除くよう編集者に指示していた(「本の雑誌」2022年6月号「担当編集者座談会」より)。また編集者が没後に自宅の片づけに行ったら、芥川賞の正賞は贈呈式で渡された袋のまま放り出してあって開けてもいなかったという。

 

つまり西村にとって芥川賞は、藤澤清造の<没後弟子>を自称するのに恥ずかしくない形で世間的な認知を得るためには是非とも必要な顕彰であったが、文壇でのステイタスを得る肩書としての価値は毫も認めていなかったということであろう。

己の私小説の絶対的価値は、わざわざ無能な文学者たちのお墨付きを得ずとも自明だったからである。それは誰よりも過去の文学を読み込んでいた彼自身の鋭い批評家としての眼で確信していたことだ。

 

ちなみに、受賞会見での、あの有名な「風俗に行こうと思っていた」というフレーズは、その後ずいぶん独り歩きして彼のパブリック・イメージの強化に貢献したが、その真意は、「豪快って意味のカッコつけで言ったんじゃなくて、落選のときの寂しさを紛らわせるために行こうかと。会見のときは、ついポロッと言っちゃった」ということだ(高橋三千綱との対談より)。

たしかに、当時の会見のビデオを見たら、ちょっと照れたようにポロッと発した言葉であり、根がスタイリストにできてる賢太としては、ウケ狙いで堂々と言えるようなセリフではなかったように思われる。

 

一度目の「どうで~」は候補作の中から最初に落とされ、二度目の「小銭をかぞえる」では「前作と同じで進歩がない」との理由で落選した。この時点でもう芥川賞には縁がないもの、と諦めてもおかしくない。

五回候補に挙がりながらも結句受賞叶わず、自死という道を選んだ佐藤泰志のような小説家もいるほど、芥川賞は小説家にとって人生を狂わせもするものである。

四十を過ぎて、他の生き方もなく、退路を断ったかたちで私小説にすべてを捧げていた西村にとっても、二度の落選は、期待も大きかっただけに、酷く堪えたに違いない。

それでも諦めず書き続けた努力を天は見捨てなかった。否、神も仏も信じたことはなく、信仰心のカケラもない西村にとって芥川賞の受賞は、またしても藤澤清造に救われた、という思いを一段と強く深めるものだっただろう。

皮肉にもその受賞作には、藤澤清造については、最後の数行に、付け足しのようにして言及されているのみだったのだが。

 

高瀬隼子さん、受賞おめでとうございます。