War Is Over

 if you want it

夜空が暗いのは?

とうとう読みたい小説がなくなってしまった。

去年(2021年)の初め頃から、自宅にあった大江健三郎(妻の所有本)をきっかけにそれまで無縁だった〈純文学の世界〉にハマることを試みて、西村賢太私小説の面白さにぶつかって、そこから川崎長太郎とか田中英光とか、それまで知らなかった私小説の面白さを知った。ちょっと横道にそれて小島信夫にハマったりもした。そんなこんなで勝手気ままに彷徨していた〈純文学の世界〉も、いよいよ未踏の地が尽きた気がする。いや、未踏の地はいくらでもあるのだが、読んで面白くないものを勉強や知識欲のためや情報として我慢してまで読みたくない。

そんなことを思うのは、結句自分は小説を好きじゃないんだな。

小谷野敦は「反=文芸評論―文壇を遠く離れて」の「虚構は〈事実〉に勝てるか」という章の中で、ノンフィクションと小説について興味深く論じている。

そこでは、二十世紀後半に〈物語〉のネタが尽きたことや、ノンフィクションの扱う〈事実〉の強さや、文学の価値は内容より文章(文体)にあるという議論などが取り上げられている。

自分は元々小説には興味がなく、ノンフィクション(歴史書、伝記などを含む)しか読む気にならない時期が長かった。その理由は、所詮人間が頭で拵えた虚構である〈物語〉には興味がなかったからだと思う。

事実と虚構のどっちが面白いとか言うことではなく、〈面白い虚構〉よりも〈面白くない事実〉の方が興味深かったのだ。

それはゲーム(RPG)に関心がないこととも通じていて、ゲームの世界は、どんなにエキサイティングで〈リアル〉であったとしても、所詮〈誰かが作った世界〉でしかなく、他人が作った世界の枠内で遊ぶことを心から楽しめないからである。だからポケモンドラクエもやったことがなく、そもそも興味がない(将棋のようなボードゲームは世界観が開かれているので抵抗がない)。

小説の中でも「私小説」に引き付けられたのは、それが〈虚構〉であるとはいえ、限りなく作家の私生活という〈事実〉に基づいた虚構であり、恣意的な(ご都合主義的な)物語の入る余地が余りないという部分が興味深かったからだ。

一から十まで人間が頭で考えた〈物語〉というものには、どうしても不自然さ、わざとらしさを感じてしまって、没入することができない。いったん没入できれば面白いのだろうが、その前で立ち止まってしまう。また仮に没入できたとしても、所詮リアルに触れたわけではないので、どこかに虚しさが残る。

じゃあもう一度〈事実〉に立ち返ればいいのかもしれないが、困ったことに、ここ最近は、〈事実〉に対する興味自体が薄れてしまっている。

例えば、ひと昔前の自分だったら、安倍晋三を射殺した山下徹也の自供に端を発した統一教会騒ぎ(政治家と反社会カルトの密接な関係)には大きな関心を寄せていただろう。

ちょっと脱線するが、統一教会原理研究会)ネタは、かつて『噂の真相』がけっこう記事にしていたが、「ウワシン」廃刊後に統一教会自民党への浸食度合いが一気に深まり、気が付くとどうしようもない状態まで来ていたという気がする。今回の山下の事件がなければ、この傾向はもっと進んでいただろう。

何度も言う通り、もう日本は取り返しのつかない所まで来ているので、今更こんなことが分かったところで、どうしようもないだろう。腐ったものは自らを支える力を持たない。

〈事実〉に関心を失ったのは、〈事実〉を暴くこと、あるいはそれを知ることで、社会が大きく変わるかもしれない、という幻想を持たなくなったこととも関係している。

〈物語〉は面白くない。〈事実〉には興味がない。では一体どうすればいいのか。夜空が暗いのはどうしてか? 誰か教えてほしい。