War Is Over

 if you want it

Don't invite me (if U hate me)

「文藝」2021年冬季号所収の綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』を読んだ。

単行本も出たようだが、わざわざ図書館で「文藝」のバックナンバーをコピーして移動中の車中で読んだ。ちなみにぼくが本を読むのに一番集中できるのは電車の中だ。

今回はネタバレなしで(といってもネタバレを恐れるような小説ではないが)書きたいが、一点だけ。第一章と第二章(明確な章分けはないが明らかに場面が変わる箇所)をまたぐ部分で、「え?」となってもう一度冒頭から読み返したのはぼくだけだろうか。これは作者の意図的な実験的試み(?)なのだろうか。そこが一番気になった。

綿矢りさは十七歳で「インストール」蹴りたい背中で華々しいデビューを飾った。デビューが華々しすぎる人はしばしばその後にスランプに陥る気がするが、彼女はそこをうまく切り抜け、着実に作家として成長し続けている、と言っていいのだろうか。

ぼくは彼女の小説を決して多く読んでいるわけではないが、これまでに読んだ小説はいずれも「綿矢りさ」という作家の個性がくっきりと刻印された、まごうかたなき〈綿矢印〉とでもいうべき作品ばかりであった。それを敢えて表現すれば、「現実に慄きつつの俯瞰したユーモア」みたいな印象になる。

人間の心の裏側を見透かしながらも、突き放すような冷徹さで描くのではなくて、そこに滑稽さをブレンドする。文章はすごく巧いので読者は作品世界に程よく共感できる。

でも、なんかこう、いつも彼女の小説を読んでいてどうも鼻につくのは、私にはそんなところまで見えてますよ、という作者の声なき声がずっと響いている気がするからだ。そこには傲慢さは微塵もなくて、むしろ謙虚で、慄いている感じがつきまとっているから、決して嫌味ではなく、もう読みたくないという気分になることもないのだが、読んだ後にいつも「う~ん、それだけなの?」みたいな物足りなさが残る。

この「嫌いなら呼ぶなよ」という小説にも、大変よくできました、でも何かガツンとくるものがない、といういつもの感想を抱いた。

付け加えると、これも藤堂志津子と同じで<モテる人の側の世界>を描いた作品だが、そのモテる人に対して糾弾が加えられるというパターンが今風の味付けである。不倫を絶対悪とする昨今のキャンセルカルチャー的風潮を巧みに取り入れた設定といえる。

糾弾する側と謝罪する側のやり取りが紋切型にしか見えないのはそれ自体が現在の状況のパロディーであるのはいいとしても、紋切型の破壊が来る前に話が終わってしまった気がして、やはりどうも慊い。

昔の文芸評論家みたいな偉そうな言い方をすれば、巧さに絡めとられてしまっていないか。才能が逆に自らを縛ることになっていないか。まあそんなのは破滅型好きのこじらせ読者の独言にすぎぬ。十分に楽しませてもらったのだからない物ねだりのような不満を並べ立てるのは贅沢すぎよう。

嫌いなら読むなよ。

せめて単行本買ってから言えよ。

と言われれば返す言葉はありません。ぼくが悪かったです。本当に申し訳ありませんでした。心から反省し謝罪します。