INSTANT KARMA

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Long Promised Road

「ベイビー・ブローカー」を見た日にもう一本見たのがブライアン・ウィルソン約束の旅路

この映画(ドキュメンタリー)は見る前から絶対に外さない確信があった。

ポップ・ミュージック史における二大天才の一人(もう一人はビートルズの存命中のあの人)であるブライアン・ウィルソンの音楽を流し続けて、現在の彼のインタビューが挟まれているとなれば、感動的な体験をしないわけがない。

実際、映画の中でGod Only Knowsのボーカル・パート(コーラス)が流されたくだりではこの世の至福というものを味わった。

学生の頃にビーチボーイズの伝記「リアル・ストーリー」を読んだことはあるが、The Beach Boysについてそれ程詳しいわけではないので、この映画の中で語られるブライアンの波乱の半生についても曖昧な知識しか持っていなかった。それでも「まあそうだよなあ」と思う位で、無意識に「リアル・ストーリー」で免疫がついていたのか、特段ショックを受けることもなかった。父親による虐待、ビジネス上のトラブル、ドラッグ、統合失調症、オカルトへの逃避、兄弟たちの死、怪しげなセラピストによる洗脳、脱洗脳を経て復帰といった一連の人生行路。あれほどの天才が支払わなければなかった代償にしても、きつい。

それよりも、もう八十歳になろうとするブライアンがスタジオで若いミュージシャンたちと生き生きと演奏する姿を見て、映画の中で誰か(エルトン・ジョンブルース・スプリングスティーン以外は初めて見る人ばかり)がコメントしていた通り、〈本物〉ってこういうもんだよなあ、という感動を受けた。日本でも七十を過ぎた細野晴臣が元気にツアーしたり新譜を出したりしているのに通じるものがあると思った。


後で監督のインタビューを読んだら、撮影中はブライアンの予測不能な行動に振り回されてやっぱり大変だったらしい。同じレストランを5回予約したりとか。

www.udiscovermusic.jp

インタビューも当初は監督が普通に室内で撮る予定だったのが、三回やっても全部失敗してどうしようと焦っていた時に、ローリング・ストーン誌のブライアン旧知の記者がドライブしながら話を聞くというアイディアが生まれたのだとか。

ちょっと驚いたのが、ブライアンが現在に至るまでデニス・ウィルソンの傑作アルバム「Pacific Ocean Blue」を聴いたことがなかったことだ。聴いてみる?と訊ねられたら素直に「聴く」と答え、実際に自宅で聴いて「いいアルバムだ」と感動していた。

上記の「リアル・ストーリー」には、ビーチ・ボーイズのメンバー(ウィルソン兄弟たち)がいかに混乱と苦悩に満ちた生活を送っていたかという観点からスキャンダルを羅列した本で、もう内容はほとんど覚えていないが、特にデニスの人生がえげつなかったという朧げな印象が残っている。「Friends」というアルバム(一番好きな作品のひとつ)に入っているデニスの「Be Still」という曲は今でもたまに頭の中をエンドレスに流れることがある。

映画のタイトルでもあるLong Promised Roadビーチ・ボーイズの数ある名曲の中でも最も好きな曲の一つで、その歌詞の内容はこの映画にもとてもマッチしていた。

ちなみに、「リアル・ストーリー」という伝記本が出たとき、ぼくは非常に興味深く読んだのだが、1989年当時、あの山下達郎が「こんな本を出すのはけしからん」という文章を発表していたのを今ネットで知ったので、記録のために転載しておく。確かに、まともな音楽的な評価をした本が一冊も出ていない中で、あの本だけが翻訳出版されるのはキツいなと思う。

ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー』が生み出した新たな誤解 

山下達郎

 

まず最初に、これは私の愚痴と思ってお許し願いたい。

何を今頃になってビーチ・ボーイズか、と言いたいのだ。

すでに遅すぎるのだ。この国でビーチ・ボーイズはあまりに語られてこなさすぎた。今さら、どこから手を付け、何を語れというのか。

一体ブライアンがサーフィンができないことが、それが今さらどうだというのだろう。その程度のことを1989年にもなろうという今になって面白がっていなければならないのか。

このところ、ビーチボーイズ関係の記事や特集をよく目にする。ブライアンのソロ、それにうまく符合するかのように邦訳されたスティーヴン・ゲインズの 「ビーチ・ボーイズ  リアル・ストーリー (原題 Heroes and Villans)」が原因と思われるが、それにしても一体誰があの本の邦訳をしようと思い立ったのだろう。

若い諸君、これだけは確認しておきたい。確かに面白い本ではある。しかしながら、あの本は決してビーチ・ボーイズの 「音楽」について書かれた本ではない。あの本はあくまでテレビの奥様向け芸能番組やFF雑誌のような視座で書かれたものである。

どんな巧妙に音楽ジャーナリズムの装いをまとっていても、あの本は本質的には芸能界のスキャンダルを題材にすることで購買意欲をそそろうとしているのであり、芸能人物語に関する興味は万国共通だという担当者の判断があればこそ、あの本はビーチ・ボーイズについての出版物として初めて邦訳されたのである。


最近ちょっとした雑誌、音楽誌をめくってみても、やれこの本はビーチ・ボーイズの実像に迫るだの、ロックン・ロールの隠れた真実だのという賛辞ばかりを目にする度に、何か大切なものを台無しにされているような気になってきて、一体この文章を書いている人たちは今までロックン・ロールに何を求めてきたのだろう、ビートルズストーンズと違ってオリジナル・カタログさえ満足に手に入らないビーチ・ボーイズ、結局、彼らの欲しているものは 「音楽」ではなく「読み物」であり「イメージ 」なのだ、夏と海とビーチ・ボーイズだけでもいい加減こりごりしている上に、今度は猫も杓子も「ペット・サウンズ」「スマイル」になるのだろうか、いやだいやだ、こんな世迷い言の記事で、特に若い人たちに妙に屈折したビーチ・ボーイズのイメージが拡がなければよいが、と思っているだけなのだ。


ビーチ・ボーイズの真に偉大な所、そして不思議な所は、あの風俗的な歌をあのコード・プログレッションとあのアレンジで演っている、という点に尽きる。ではいつ、何故そうなったのか?

 

 ブライアンはどういう必然でルートを回避するコーディングを選択するようになったのか? キャピトル契約以前に 「サーファー・ガール」はすでに存在していた。なのに3枚目のアルバムまであの傑作が登場しなかったのは何故か?

 

「カントリー・フェア 」 から 「アミューズメント・パーク 」 への発展経過は? そしてフレディ・キャノンとの因果関係は? 「ユア・サマー・ドリーム 」には何故コーラスが入ってないのか?

 

何故 「ウェンディ」からいきなりヴォーカルがセンターに定位するようになったのか? 「ゼア・ハート・ワー・フル・オブ・スプリング 」は何故 「ア・ヤング・マン・イズ・ゴーン」と詞が変えられて歌われたのか?

 

「ドント・ウォーリー・ベイビー」のヴォーカル・アレンジなどはかなりフォー・シーズンズに対抗している節があり、また「カー・クレイジー・キューティー」などは明らかにディオンのスタイルだ。そうしたイースト・コースト・ヴォーカル・グループへの対抗意識は?

 

… まだまだ一杯あるが、要するに私の知りたいのはこうした事柄であり、断じてブライアンの付き合っていた女性のことなどではない。


楽家人間性を知ることも確かに重要ではあるだろう。だが、ビーチ・ボーイズに関する資料が誰の目にも届く所にふんだんにあるのならともかく、邦訳の栄に浴したビーチ・ボーイズ関係の書物が一冊もない我が国で、「リアル・ストーリー」のような内容の本を過度に評価する気持ちにはとてもなれない。かえって、また新たな誤解を生み出す恐れがある。

公式に発表されたすべての音源がオリジナル・シークエンスのままで、誰もが容易に手に入る状況ですらないのに、上下巻に及ぶ暴露本にどれほどの価値があるのか私には疑問である。

我々はレコードの中から送られてくる音の中の何ものかに感応したからこそ、ビーチ・ボーイズを愛するようになったのであり、何よりも 「初めに音楽ありき」、耳で聴くこと抜きに一体何があるというのだろう。

 

「ペット・サウンズ 」は語り継がれるべき作品である。何故ならこのアルバムは、たった一人の人間の情念のおもむくままに作られたものであるが故に、時代性への義務、おもねり、媚びといった呪縛の一切から真に逃れ得た、稀有な一枚だからである。のこアルバムの中には 「時代性」はおろか、「ロックン・ロール」というような 「カテゴリ」さえ存在しない。

「ペット・サウンズ 」 は私のような者にとっては 「音楽とはかく作るべし」という道標であり、また容易に真似のできるような代物でもない、その意味では憧れでもある。「ペット・サウンズ」が我々に示しているのは、真の「オリジナリティ」とは何か、という命題であり、それ以外の枝葉末節は何ら重要ではない。

ブライアン・ウィルソンのソロアルバムは、心あるビーチ・ボーイズのファンにとっては、ブライアンがよくぞアルバムが作れるまでに精神的に回復してくれたという証明であり、それだけで十分なのだ。それを “80年代のペット・サウンズ” などという安易なプロパーにおとしめることだけはやめてもらいたい。本気でそんな風に考えている人の耳を、私は絶対に信用しない。

限られた情報から多くの誤解が生まれ、それによって今また新たな伝説が捏造されようとしているのを見るのは悲しく、苦々しい。ブライアンとビーチ・ボーイズを心から愛するファンの一人として、このことを誰かが今言っておくべきだと思った。

 

「 “ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー” が生み出した新たな誤解 」 | 山下達郎.org (fine-day.org)より転載

今でこそビーチ・ボーイズの音楽に関する本はたくさん出ているが(下記サイト参照)、1989年ですら山下達郎がこんな文章を書かざるを得ない状況だったのだ。

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