INSTANT KARMA

We All Shine On

How Deep Is The Ocean ?

ポール・ウィリアムズブライアン・ウィルソン&ザ・ビーチ・ボーイズ 消えた「スマイル」を探し求めた40年』 (五十嵐正訳、シンコーミュージック、2016)を図書館で借りる。

1948年にボストンで生まれ、”最初のロック評論家””ロック・ジャーナリズムの父”と呼ばれたPaul Williamsが2013年に介護施設で亡くなったとき、ブライアン・ウィルソンはこうメッセージを寄せた。

僕の家にやってきたとき、ポール・ウィリアムズはまだ少年だった。僕が「スマイル」を作っていた頃だ。僕らはたくさんの話をして、彼に新譜のアセテート盤を聞かせた。彼はそれを本当に理解してくれたんだ。僕はそのことをいつまでも忘れない。彼は「クロウダディ!」を創刊し、たくさんの素晴らしい本を書いた。ポールは今週亡くなった。彼の家族にお悔やみを伝えたい。愛と慈悲を

2013年3月 ブライアン・ウィルソン

1966年に彼が創刊したロック評論誌「クロウダディ!」は、当時学生だった彼が学生寮の部屋で一人で執筆を編集を行い、友人宅で謄写印刷したページをホッチキスで留めただけの小冊子だったが、それまでのファン向け雑誌とはっきり異なる記事の水準が反響を呼び、雑誌を送ったボブ・ディランポール・サイモンから寮に電話がかかってきたという。

「クロウダディ!」には若手ロック評論家が集い、後にブルース・スプリングスティーンのプロデュースをするジョン・ランドーやクラッシュのプロデューサーになったサンディー・パールマンなどを輩出した。

のちに代表的なロック評論誌となる「ローリング・ストーン」の創立者ヤン・ウェナーは創刊の前にポールに助言を求めたという。ジョンとヨーコの「ベッドイン」にも立ち会い、Give Peace a Chance のレコーディングにも参加した。

七十年代には「クロウダディ!」を後進の編集者に譲り、カナダの人里離れたコミューンで暮らしたり「DAS ENERGI (ダス・エナーギ)精神のエネルギー経済学」(邦訳あり)という本を出したりSF作家フィリップ・K・ディックの遺作管理人になって「ブレードランナー」や「トータルリコール」の映画化を実現させたりと、音楽以外のフィールドでも活躍した。最初の妻は日本の女性シンガー・ソングライターの先駆けともいわれる金延幸子。ちなみに彼女の1972年のアルバム『み空』は細野晴臣がプロデュースしている。

 

ビーチ・ボーイズについて書かれたこの本の最大の読みどころは、1966年にブライアン・ウィルソンの自宅で「スマイル」の音源を聴いてその素晴らしさに感動していた著者が、当時ブライアンの側近だったデイヴィッド・アンダールと対談した三部構成の記事「いかにして『スマイル』は失われたか」(本書第5章)であり、この記事が”史上最高の未発表作品”「スマイル」の評価を決定的なものにしたとされている。書かれている内容はビーチ・ボーイズのファンならもう誰でも知っているようなことだが、その伝説の発生源がここにあるという点に価値がある。

周知のとおりブライアン・ウィルソンは2004年に「スマイル」を完成させ正式にリリースしたが、この本にはそれについての著者の記事も掲載されている(日本語版特別寄稿記事として)。

「スマイル」の完成は、2000年代後半に若年性アルツハイマーで認知能力を失うことになる著者に届くのにギリギリ間に合った。

本の原題、How Deep Is The Ocean ? は、ブライアンが何度も繰り返し録音している名曲「Till I Die」の歌詞からの引用である(著者は、これはブライアンの禅の公案だという)。

完成した「スマイル」(2004)についての記事を、著者はこう締めくくっている。

これはほんとうに素晴らしいレコードだ。僕もブライアンも、これまでずっと同じ態度を貫いてきた。ただ、彼がもう酒を飲まなくなったことを除けば。

このアルバムのタイトルは、ネイティブ・アメリカンの格言に由来している。

「あなたが人に向けた笑顔は、自分のもとに返ってくる。」

僕はそのことを保証する。