1970年生まれ、兵庫県明石市出身の小田原ドラゴンは、1997年、26歳のとき『ヤングマガジン増刊号赤BUTA』(講談社)第13号掲載の「僕はスノーボードに行きたいのか?」でデビューした。それまでに漫画を描いた経験はなく、ペンを握って300日で商業誌に掲載されるという鮮烈なデビューであった。
漫画を描くきっかけは、
親から「就職しろ」ってうるさく言われたから。それだけです。1年間だけ漫画を描いてみて、芽が出なかったら就職するという約束で。漫画を読むのは好きだったけど、漫画なんか一度も描いたことがなかったんですけどね。
当時、山田花子さんが好きで、あんな感じで自分の学生時代の絶望感みたいのを描けないかな、と思って。もちろん、漫画なんか描いたことないわけですから、コマ割りもペンタッチもメチャクチャですよ。たまたま投稿した『週刊ヤングマガジン』が絵が下手でも載せてくれる心の広い雑誌だったんでラッキーでしたね。
確かに、山田花子の濃い影響が伺われる。画は謙遜でもなんでもなく稚拙極まりないとしか言いようがないもので、よくこんなのが商業誌に掲載されたな、と驚くレベルだ。
ここからの連作が初期の代表作「おやすみなさい。」に直結するのだが、この作品の初期のタッチも悪い意味で玄人離れしている。ギャグ漫画だからこそ許されるレベルで、小林よしのり「東大一直線」の第一話を読んだときと同じ衝撃を受けた。
裏を返せば、ギャグ漫画において画の巧拙は作品のクオリティや作家性の表現のレベルにとってまったく重要性を持たないということがよくわかる。
本人曰く、中一くらいまでは中性的なかわいい顔をしていてモテたらしい(確かにプロフィール写真を見ると、スピッツの草野マサムネと飛石連休の岩見よしまさを足して二で割ったようなルックスをしている)。しかし、中一の一学期の中間テストが終わった瞬間に急にサーッと波が引くように、キツネに化かされたみたいな感じでぜんぜん相手にされなくなったという。
明石市の商業高校に入学したが、高校時代が最も孤独だったという。友達もおらず、昼休みに弁当を一緒に食べる相手もいないので昼休みはひたすら校舎をウロウロして過ごした(弁当は家に帰ってから食べた)。
高校は女子の方が多く、入学前は、三人と同時に付き合ったらどうやってローテーションを組んだらいいだろうと考えていたほどだったのに、三年間で話したのはトータルで一分にも満たなかった。
小山田ドラゴンのその後の作品のモチーフとモチベーションは、この三年間にそのすべてが詰まっていると考えれば、人生万事塞翁が馬。
「ぼくと三本足のちょんぴー」という作品もある。