War Is Over

 if you want it

吉田豪年譜(暫定版)

吉田豪年譜(個人的な備忘録のためかなり適当な部分あり。随時更新予定)

1970年(昭和45年)

9月3日、東京都練馬区江古田で生まれる。二歳上の姉がいた。両親は印刷会社に勤めており、麻雀仲間はほとんど出版関係者で、雑誌が刷り上がると漫画や音楽誌を発売前に贈ってくれた。

姉の影響が大きく、パンクやメタル、ニューウエーブなどの音楽や、プロレスや少女漫画も姉を通じて知る。

1978年(昭和53年)8

小学二年生の時、江古田から同じ練馬区内に引っ越し、転校する。

多動的傾向あり、一人だけ教卓の横に机をつけられていた。部屋の片付けも病的にできなかったが、放任主義だった両親はそのことで叱ることはなかった。

小学校時代はアニメオタクだった。父親のマイクロカセットにアニメ主題歌を吹き込んだり、友達の悪口を吹き込んで本人に聴かせるなどの悪ふざけもした。

1982年(昭和57年)12

小学校の卒業旅行(ディズニーランド)に参加せず。

1984年(昭和59年)14

中二頃から、周りがどんどんヤンキーになっていき、舐められないためにバイク雑誌などを読んで不良的な知識を勉強する。当時不良文化だったアイドルの研究も行うようになる。学校の勉強は嫌いだった。

中学の時に、毎回友達が言い間違えとかするのを全部生徒手帳にメモして、1年、2年たっても言い続けるっていう男だった

社会の授業の課題でアニメーターに仕事についてインタビューし、業界の過酷な現実を聞かされ、アニメに携わる夢を捨てる。

1985年(昭和60年)15歳 

おニャン子クラブ中島美春(なかじ)卒業公演で初めて武道館に行く。ちなみにおニャン子クラブでは高井麻巳子が好きだった(初めての秋元康インタビューでそこを責めた)。姉の友達の親(国会関係者。ロッキード事件で逮捕された灰色高官)にチケットを押さえてもらった。

1986年(昭和61年)16

入試で30点取れれば入れる大学付属の私立高(城西大学附属城西高校)に単願推薦で入学。

4月8日、岡田有希子の自殺のニュースに衝撃を受ける。

高校生活はパンクとヤンキー文化に浸り、文化祭実行委員になって文化祭を阻止する活動など行う。根っからのヤンキーからも、文化系のサブカル趣味の生徒たちからも浮いてしまう存在になる。

1989年(平成元年)18

高校の卒業式の間、職員室に軟禁される(金髪をスプレーで不自然な黒髪にしたのに教師がキレた)。

高校卒業後、原宿駅前のテント村のパンクショップでバイトを始めるが、帽子で隠していた金髪がみつかってクビになる。

パンクショックのバイト面接で、「ボクはパンクで金を稼いでいいのか葛藤があります」って言ったんですよ(「豪の部屋」The Star Club HIKAGEとのトークより)

以後一年間、「金がなくて時間だけあるのが一番辛い」時期を過ごす。

ロシア(当時ソビエト連邦)に留学した姉の影響で左翼思想に走り、反原発イベントに参加するなどして自宅の電話が盗聴されていた。

18歳、ミニコミ『修羅』スタッフに白塗りメイクされてYBO2×ZOAの新宿LOFTに行ったときの写真

1990年(平成2年)19

無試験で入れると友人に誘われて東京デザイナー学院に入学。

下手に色々詳しいから、中途半端に語る奴が腹たってしょうがなかった。おまえら、そんなもんも知らないでアニメを語るな、こらぁ!って(笑)。それで反戦反核、反オタクをテーマにするバンドを組んで、アニメ・ソングをパンク・ヴァージョンでカヴァーして、オタク批判の歌詞をガナりたてたりして。あと、漫研のクイズ大会に殴り込みをかけてぶっちぎりで優勝したり

在学中に両親が離婚。姉が結婚して実家の部屋が空き、物で埋め尽くされる。

1992年(平成4年)22

卒業制作で当時の学校の校長や教員の暴露本を制作する。このときの清掃のおばちゃんらへの聞き込みがその後のインタビュー活動の原点となる。

学長の暴露本を作ったんですよ。掃除のおばちゃんとかに取材して。そしたら、『聞いてよー。私、あいつの愛人の家の掃除行かされたのよー』とか、教師に『実は地上げで一回捕まっててねぇ』とか聞くと、地上げの現場に行ったりとか、物凄い緻密な取材をして。面白いのは、それまで毎年全員分の卒制が上野美術館で展示されてたのが、俺らの代から代表者だけになって。明らかにはじかれた! と(笑)。だから、勝手に置いてきたり、学園祭で販売したりしたんだけど

専門学校在学中(9月)に反原発漫画情報誌『コミックボックス』に内定。3月に私服で面接に行ったら落とされる。4月末に知り合いが辞めた編プロ(アートサプライ)に入社。『宝島』『ビデオボーイ』『マガジンWooooo!』などの記事を書く。杉作J太郎平山夢明リリー・フランキーの原稿を打ち込んだり、ビデオ評を書いたり、アイドルの取材などを行う。リリーとの師弟関係が始まる。

1993年(平成5年)23

入社2年後に『紙のプロレス』に引き抜かれる。

紙プロ』がイヴェントをやった時、“ターザン山本高田文夫トーク・イヴェントに、サクラで来てくれ!”って言われて見に行ったんだけど、なぜかターザンが高田文夫に激怒して途中で帰っちゃって。『紙プロ』の編集長(山口日昇)が壇上に上がってつないだんだけど、イヴェント終了後、挨拶に行ったらそのまま『紙プロ』編集部まで拉致されて、朝まで仕事させられた。でも、そのギャラが凄い良かったから、以後ちょくちょく手伝うようになったのがきっかけ

インタビュー記事を執筆するようになり、次第にライフワークとなっていく。『中州通信』というミニコミで著名人のお墓参りや自殺現場に足を運ぶ連載を書く。

1995年(平成7年)25歳

4月19日、久しぶりにハマったアイドルグループ「みるく」の堀口綾子自死。精神的に壊れそうなアイドルへのインタビューを通して力になりたいとの思いを強くする。

大谷Showが「紙プロ」に連載していた書評があまりにつまらないので代わりに書くことを申し出る。結局連載を奪取するかたちになる。

ゴーストライターを務めたダーク広和『催眠術師になりたい』が出版される。のちに、東大和田市一夫多妻男事件(2006年)のタネ本として有名になった。

1996年(平成7年)26

紙のプロレス』の分裂に伴い、紙プロ編集部を事務所として間借りしながらフリーランスになり、『BUBKA』(コアマガジン白夜書房)『ダカーポ』(マガジンハウス)など、30本前後の連載を抱える人気ライターとなる。

12月、マンガ地獄変』(植地毅宇田川岳夫らとの共著、水声社、1996.10)

元東声会京都支部長・唐田知明さんや朝堂院大覚総裁との記念写真

紙プロ」の事務所(ダブルクロス)の家賃(月3万円)代わりに「紙のプロレスRADICAL」を手伝うという条件だったが、明らかに家賃以上に働いていた。山口日昇がPRIDEやハッスルの中の人として仕事をするようになり、そうした興行にも平気で駄目出しをする吉田は山口から次第に疎まれるようになる。

1997年(平成9年)27

2月、「悶絶! プロレス秘宝館」発売

2000年(平成12年)30

7月10日(月) 月刊誌「TVチョップ」(エンターブレイン)の打ち合わせでいきなり月30本以上コラムを書くよう依頼され固辞するもそのまま拉致、キャバクラに連行されて引き受けさせられる。最終的にはコラムではなく著名人ロングインタビューを30数本に毎日分割して載せることになる。これが翌年「男気卍固めとして単行本化され、吉田豪の初期の代表作となった(2007年には文庫化)。

2001年(平成13年)31歳

1月、橋本真也「Missing Person」という本を巡り「紙のプロレスRADICAL」で佐々木徹を批判したら謝罪広告を出せと抗議が来るが、誌上に適当な謝罪を出しただけで終わらせる。

2004年(平成16年)34歳

1月、「紙プロ」に書いた高田延彦の妻・向井亜紀の『会いたかったー代理母出産という選択』の書評に高田が激怒。山口日昇に連れられて高田の所に行き、謝罪させられる。

4月、TBSラジオ『ストリーム』のレギュラーコメンテーターになる。

10月9日、山口日昇の妻から「事務所を移転するから私物を全部持って帰るように」との連絡があり、新しい事務所には居場所がないことを告げられる。

ダブルクロスから荷物を運び出すのをTBSラジオの橋本吉史ADに手伝ってもらう。

紙プロ」での書評を中断し、『ゴング格闘技』に移籍して連載を続けることとなる。

その後、山口日昇はハッスルの失敗で8億の借金を背負い、出版業界から姿を消す。

2005年(平成17年)、35歳

ライターの照山紅葉秦野邦彦)とポッドキャスト番組『豪さんのポッド』を開始。

2007年(平成19年)、37歳

MONDO21CSチャンネル)「松本伊代のキラキラ80’s」にレギュラー出演。

タモリ倶楽部」やテレ東「給与明細」などテレビ出演ラッシュ。

2008年(平成20年)、38歳

マレーシア人と結婚した姉が家族(子供4人)で実家に戻り、新宿二丁目に引っ越す。電柱に貼ってあったチラシを見ただけで中古マンションを衝動買い。実家から運び込む荷物だけでも段ボール300個になり、大量の段ボールに囲まれながらその隙間で原稿を書いたり寝たりする毎日を送る。

2012年(平成24年)、42歳

「kamipuro」元編集長・山口日昇と雑誌対談。高田延彦に呼び出されて怒られた事件以来8年ぶりに会話する。

12月30日24:00からTBS系列局のドキュメンタリー番組情熱大陸に出演。

情熱大陸吉田豪】1970年東京出身。インタビュー相手に限りない興味を持つにもかかわらず、自分のことはあえて語らない。新宿2丁目に一人暮らし。都内の取材場所にはどこでも愛用の自転車で現場に向かう。取材ディレクター曰く「仕事以外の所謂“煩悩”を本当に持ち合わせておらず、ある意味求道者的な42歳」

吉田光雄 @WORLDJAPAN
ニコ生では説明しましたけど、今回の『情熱大陸』はボクの特集じゃなくて、阿川佐和子『聞く力』ブームに便乗した、大物ゲストが続々登場する「吉田豪の取材」特集でした。道重さんは「大物が足りない」という局の意向で追加された取材相手なので、「B級アイドル」呼ばわりするわけもないです。2012-12-31 03:20:55

2014年(平成26年)、44歳

「ルックス重視のミスコンとは異なり、ルックスやジャンルに捉われず、新しい時代をサバイブしていく多様な女の子のロールモデルを発掘するオーディション」と謳うミスiDの審査員になる。2022現在も毎年継続。

ミスiDからは、戦慄かなのなどのユニークなアイドルを多数輩出し、彼女らとはその後もさまざまなイベントや番組で共演することになる。

2017年(平成29年)、47歳

テレビ朝日の番組『ラストアイドル』に審査員として出演。10月22日放送の第11回で、かねてよりファンの間で評価も高く人気もあった長月翠が蒲原令奈に敗れた。この回でジャッジに指名された吉田豪が蒲原を選んだことでネット炎上。結果的に吉田と番組の双方の知名度を上げた。

2022年(令和4年)、52歳

テレビプロデューサー・佐久間宣行が総合プロデュースを手がける新アイドルグループのオーディション「佐久間Pアイドルプロデュースプロジェクト」に審査員として加わる。この企画は佐久間がディレクターを務めていたテレビ東京の番組「青春高校3年C組」の出演者が「もう一度アイドルとして活動したい」と佐久間にプロデュースを依頼したことがきっかけでスタートしたもの。吉田は「サブカル担当」という謎の肩書で最終審査に参加した。