War Is Over

 if you want it

Tokyo Tower ~My Mom and ME, sometimes my Dad~

リリー・フランキー「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」 (扶桑社)を読む。

著者の名前はもちろん知っていたし、この本がベストセラーであることも当然知っていたが、中身についてはまったく知らないで読んだ。この本のレビューにもまだ一切目を通していない。だから読了直後のまっさらな印象になる。

そら泣くわ、こんなもん。

こんなん書かれたら誰でも泣くやろ。

でも、あざといとか狡いとか全然感じないのは、著者が、母親をはじめとする家族や人々への思いを、まったく素直に正直に書いていると感じられるからだ。この本が多くの人々の心を打ったのは、著者の何の”構え”もない文体のためだと思った。

つまりこの著者は、自分のことや母親のことを殊更よく見せようとか美化しようとか、父親を貶めようとかいう余計な気持ちを捨てて、ただ自分の心を正直に見つめて、気負いなしに、他人の視線を過度に気にすることなく、まっすぐに記している。そこに書き手のエゴの無さを見る。これは決して容易なことではない。

僕は以前、志賀直哉の「和解」を読んだとき、こんなことを書いた。

長年激しく対立してきた父親との和解のプロセスを描いた『和解』という小説は、志賀直哉の最高の入門書だと思っているが、一見すると、それは小説というよりはただの公開日記のようにすら思われる(書評をインターネットで探していたら、誰かが志賀直哉の作品を「個人のブログで足りるようなもの」といって批判していた)。

だが、誰でも試しに、親子関係でも夫婦関係でも友人関係でもよいが、自分にとって最も切実な人間同士の関係を、これほど明瞭に描写できるかどうか自問してみることをお勧めする(文章の巧拙はどうでもよい)。

志賀の作品は決して内面の吐露や告白に終始するものではないから、「私小説」というのは誤解を招く。それは「私」を主人公にした一種の叙事詩のようなものだ。的確に描かれた叙事詩というものは、文章による無我表現の典型であるといってよい。なぜなら、そこには書き手の側に登場人物の誰かをありのままの姿より良く見せようとか貶めようとかいう自意識というものが完全に欠如しているからだ。

著者の文章は読みやすくはあるが、いわゆる文学的な香りを感じさせず、文体は芸術味を欠いていて、もちろん志賀直哉とは比べるべくもない。だが、自分にとって最も切実な人間同士の関係を、明瞭に描写するという点で、ひとつの客観的な表現たり得ている。

著者の人生は、家族関係についてやや複雑な面があるとはいえ、特別に際立ったドラマがあるわけではない。実際の著者自身はかなり特別な才能を持つ特殊な人物なのだが、そのような特別さを感じさせないエピソードの羅列と、その素朴ともいえる筆致ゆえに、世の中にはこういう家族を持ちこういう生活を送っている著者のような人は数多くいるだろうとなぜか思わせてしまう。

母に対する思いという万人が共感できる主題を、これほど巧みに細やかに描けば、読者の琴線に触れることは必然である。加えて必要以上の臭みを感じさせない平易な文体。ベストセラーとなり一世を風靡するような作品であることは十分納得できた。

ここから先は、ごく個人的な感想になる。

一言でいえばこれは”マザコン小説”だが、「全ての男性はマザコンである」という普遍的なテーゼが、自分自身にはピンと来ない(この小説に感動しないという意味ではない)。

自分に生まれつき情が欠けているのか、それとも他の要因があるのかは分からないが、自分にとって母親は未だにアンビバレントな(愛憎併せ持つ)存在であり、その<愛>の部分が深い実感として自覚できない。別に虐待されていたとかネグレクトだったということはではまったくない。普通の家庭(というのもよく分からないが)と同じように、あるいはそれ以上に母親の愛情を受けてきたし、”よく育ててもらった”と思っている。そのことには感謝の念しかない。しかし”マザコン”という感情が自分には理解できない。

自分にとっての”オカン”とは、ダウンタウンのコントに出てくる、あのうっとおしい、時には邪魔でさえある存在のままなのである。離れて暮らし、たまに会話すれば自分の愚痴を延々と押し付けてくる母親に対し、えなりかずきのような表情で優しい相槌を打ち続けることなど到底無理で、うんざりしながらぶっきら棒な対応しかすることできない。それも「仕方ねえなあ」という苦笑ではなく、心底鬱陶しいという思いしかそこにはないのだ。五十を過ぎてもなお反抗期がずっと続いているような今の状態は、逆に言えば未だに「親離れ」できていないことを示しているにすぎず、未熟な関係性といえるのかもしれない。

しかし母が本格的に弱って、惚けたり病気になったりすれば、そして死を迎えることになれば、この心境には変化が生じるのだろうか(もう年齢的にはいつそうなってもおかしくない)。

やはり、この著者のように、息子というものは父親から虐げられる母親の不幸な姿を見てマザコンになるのではないだろうか。自分がもし、ただ自分の心を正直に見つめて、気負いなしに、他人の視線を過度に気にすることなく、自分の母や父との関係をまっすぐに記すとすれば、どんな文章になるのだろうか。

そんなことを考えながら読んでいたのであった。