INSTANT KARMA

We All Shine On

仰臥雑録

明け方に目が覚めて目が冴えて眠れず、横になりながら社会人一年目の頃を漫然と思い出していた。右も左も分からず、何の仕事をしていいのかもわからず、心を開いて話せる友人も職場におらず(同期の何人かとはたまに話すことがあったが)、毎日早く帰ることばかり考えていて、本当に辛い日々だった。周りも癖のある人が多かったが、今振り返ると、自分が一番変な奴だったと思う。

全く周囲と打ち解けようとせず、歓送迎会では人前でカラオケを歌うよう強いられそうになったのを固辞してさっさと帰宅し、昼食も一人で食べに行き、決して残業せず、仕事にはまったく意欲を見せない。上司は決して目の笑わない威圧感のある小役人風情の人だったが、正直自分の扱いに困っていたのではないか。職場では自分の学歴がマイナスにしか作用しなかった。昼間は死んだ目で過ごし、夜に当時通っていたスピリチュアル系の集会に行くことだけを心の支えにしていた。完全な二重生活だった。弱肉強食の資本主義社会が崩壊して千年王国が到来するのを今か今かと待っていた。

そんな調子だから周囲の人と話が合うはずもない。合わせる気もまるでなかった。周囲からは完全に心を閉ざしているように見えただろうし、何を考えているのかさっぱり分からない不気味な人間に映っていただろう。隣の係にいたAさんという人が唯一自分の変な人間性に理解ある素振りを見せてくれたが、係が違うので口出しはできない様子だった。彼は順調に出世してもいいはずの人だったが、数年後にはどこに異動したのか分からなくなった。当時生き生きと働いていた先輩たちは今は幹部クラスになっている。妻も頑張っているがキャリア組と現場組の格差はあるのだと思う。自分は普通にやればキャリア組の出世コースに入っていたのは間違いないが、そのつもりがまったくなく、そもそも役所の仕組みすら理解していなかった。

こんな人間が今、まがりなりにも(余裕のない自転車操業ではあるが)生活して行けているのは自分の力だけとは決して思えない。感謝しないと罰が当たるというものであろう。当時信じていた教えに不満を抱くのは罰当たりというものであろう。これで自分の生活が破綻してどうしようもなくなっていれば統一教会の信者のように妙なカルトにハマった自分を悔いて宗教を呪ってもいいのかなと思うが、一応そうはなっていない。

本物の宗教とそうでないものとの違いは、物質的な意味でも信者が救われているかどうかということも大きいと思う。もちろん幹部信者ではなく一般の(底辺の)信者についてである。それは宗教の人脈で生活を確保するという意味ではなく、信者が宗教と関係のない仕事をして普通に生きていけるという意味である。宗教に入ったために精神的なバランスを崩して生活が破綻する信者は、統一教会のような悪質なカルトでなくとも、よくある話である。

自分自身も、上述のように、社会人になった頃は、ある種の異常な精神状態にあった。そんな人間が、人並みに結婚し、子供が生まれ、仕事を替えたとはいえ、一応生活できている。この先のことは分からないが、今こうやって生きて行けていること自体が奇蹟的なことであると思っている。今苦しい状況にある人に対して言えるようなことは何もない。自分が苦しかった時のことを考えれば、自暴自棄になりさえしなければ出口は必ずあると信じてほしいとしか言えない。もちろんそのために宗教に入る必要などない。仕事に一心になることができれば一番いいのだが、仕事が苦痛である場合には、精神分析でもボランティア活動でもアートでも何でもよい。宗教は、真偽を見誤るリスクが高すぎるのであまりお勧めしない(突き詰めた言い方をすれば、自分は科学というのも一種の宗教だと思っている)。