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散文世界の散漫な散策

大谷能生「 散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む(ブレインズ叢書2)」を読んだ。

大谷能生の本はどれも非常に面白く刺激的なのだが、この本は特に啓発的だった。

この本は、渋谷HEADZ事務所で2007年9月から翌年1月まで行った講義を元に作られたもので、講義内容は、大谷が影響を受けた批評家の作品を、毎回15~20名前後の生徒と一緒に読むという形式だったという。

取り上げられた作品は:

宮川淳アンフォルメル以後』

平岡正明山口百恵は菩薩である』

蓮實重彦『映像の詩学

生井英考『ジャングル・クルーズにうってつけの日ヴェトナム戦争の文化とイメージ』

吉田健一『時間』

この5名の批評家の、上に挙げた作品と、関連する資料も読みながら、彼らの批評の読み方を探っていく。

講義を始めるにあたって、大谷はその趣旨をこう述べている(太字は引用者による)。

えーと、これまでにぼくは、いろいろな場所でさまざまな文章を書いてきたのですが、自分が文章と言うものを書きはじめるにあたって、その語られている内容ももちろんなんですが、それよりももっと根本的に、言葉によって対象に触れてゆく、そのやり方そのものの見事さに舌を巻くというか、ほとんど決定的な影響を受けた作品というものが、幾つかありました。この講義では、ぼくが影響を受けた作家の「批評」を精読することを通して、書き言葉が持っている独自の力、特に「批評」と呼ばれるような散文作品がどのような世界を作ることができるのかという、その広がりについて、改めて確認していきたいと思っています。

この本を読んでいて、それぞれの作家、それぞれの作品について、大谷が言葉によってその対象に触れていく、そのやり方の見事さに舌を巻くことがしばしばあったように思う。大谷の解釈によって、これまであまり興味を持てそうになかった作品も、思わず読んでみたいという気にさせられる。この本は、そんな力を持っている。

ぼくは、いわゆる文学作品(小説とか詩とか)を読み始めたのはごく最近の話で、どちらかといえば批評の方を好んで読んでいた。それも読んでいた、と言えるほどではなく、小林秀雄とか、吉本隆明とか、その他の文芸批評家の時々の文章や、大谷が近著で俎上に載せていた「ロキノン系」の音楽批評といった程度である。

上に挙げた、この本で取り上げられた作品はいずれも読んだことがない。

そう考えると、「趣味は読書」なんて偉そうに言える資格はまるでないな、と改めて思う。

さて、この本が取り上げている5人の批評家について大谷が論じたことについて、簡単な感想めいたものを記録しておきたいと思う。

まず宮川淳については、名前も聞いたことがなかったし、もちろん「アンフォルメル以後」という書物の存在も知らなかった。「アンフォルメル」 (Informel 「形がない」の意)というのは美術史の用語で、「絵の具をカンバスにたらしたり、無意味な形象を散乱させたりして、多くは激しい感情を表現する。代表者はマチュー、ボルス、ポロックなど。無形派。非定形派。」ということらしい。ポロックのアクション・ペインティングなら教科書で見たことがる。

この本に登場する5人の批評家の中ではたぶん最もマイナーな批評家の比較的地味な書物から始めたことについては、多分に大谷自身の問題意識が関係しているだろう。1996年頃、大谷は「エスプレッソ」という批評誌を始め、「複製技術を前提にした音楽の制作」というものに関する批評を書こうと思っていたが、音楽の分野で参考になりそうな批評が見つからなかった。そんなときに宮川淳の批評を読み、強く訴えるものがあったという。

それは、目の前の作品の価値を、実際にそれがどのようにして作られているのか、そのプロセスから改めて考えてみること、既存の価値観をいったん頭から捨て、その目的を根本から考えるという姿勢といってよいだろう。

具体的には、絵画においては、マチエール(目の前にある物質、たとえば絵画における”絵の具”)は、表現の道具でしかないものだったのが、アクション・ペインティングにおいては、絵の具の存在そのものが想像力の源泉となり、さらには「描くという行為そのもの」が絵画を成り立たせる要素となる、という認識の転換があった。

大谷の問題意識は、レコード化された音楽、「複製技術を前提にした音楽」というものが音楽をどのように変えたのか、というところにあって、菊地成孔との共著「憂鬱と官能を教えた学校」や「東京大学アルバート・アイラ―」の冒頭部分にもこの問題が論じられている。

そしてそれは、この本の中で、蓮實重彦『映像の詩学』における「映画的想像力」について論じる中で、「そこに確かに存在しているけど、物語を語るためには不在とみなされるほかない、原理的な基盤」、見ているんだけど、見ていないものの存在に支えられながら成立する映画的体験について語っていることともつながっているだろう。大谷による蓮實重彦の「ジョン・フォード論」の読みは感動的ですらあった。

平岡正明は、流行歌手を論じる際に最もふさわしいドキュメント性をもって、山口百恵という「存在の発展を、それと並走するようにして、その可能性を最大限に評価するようなやり方で読み取って」いった。先が見えない状況での記述。ともかく、目の前にあるもの直視し、「その運動の大きさを、最大の上限でもって理解し、目の前にあるものの運動が止まる前に提示する。こうしたことがある運動に立ち会った批評家の仕事」であると大谷は言う。

平岡以降の批評家で、そんな風に論じることのできた者がいただろうか、と大谷は問いかけている。たとえばモーニング娘。について、実際、あれは何だったのか、ということに関して、同時代的にきちんと批評することができたはずなのに誰もやらなかった。この本が出た後でいえばAKB、ハロプロ、地下アイドル、今のK-POPの日本における受容についてもそうだ。今巷には「アイドル評論家」はたくさんいるが、アイドルというヒットを支える存在の論理―それはもはや平岡のいう「大衆の論理」とはいえないのかもしれないがーまで踏み込みながら考えない限り、芸能批評は真に機能しないのではないか。大谷の問題意識はこの時点でそこまで来ている。

生井英考の「ジャングル・クルーズにうってつけの日」は、ベトナム戦争という、それまでアメリカが経験してきた戦争とはまったく異質な経験を、その後のアメリカがどう咀嚼し、そこからどのようなイメージが創造されてきたのかを巡る鋭い批評だが、2022年の今、この本を読むには、現在進行中のウクライナ戦争を頭から除外して読むことは難しいだろう。もちろんベトナム戦争の持つ意味と現在のウクライナ戦争が世界にとって持つ意味はまったく異なっているが、何かの手掛かりにはなるのではないかという予感を抱かせる。

吉田健一という作家については何となく名前に見覚えがあるくらいで、何も知らなかった。こんなに不思議な文章を書く人だと知って俄然興味が出た。