War Is Over

 if you want it

Nowadays Nancy can't even sing

ぼくにとってナンシー関といえば、「噂の真相」のコラム「顔面至上主義」である。

生前、単行本や文庫になった彼女の本は読んだことがなかった。テレビもあまり見ていなかったので、テレビ番組批評家としてよりも、テレビに出てくる著名人に<寸鉄人を刺すような評言を加えるご意見番>という印象が強かった。

その割には、具体的に覚えている言葉がない。今回、「ナンシー大全」などで昔のコラムを読み返してみて、ああそういえばこんなの読んだことがあるなあ、と思い出したのがいくつかあったが、当時も今も、「深く膝を叩いた」、というものはなかった。

よく「今ナンシーが生きていたら〇〇〇について何と言っただろうか」という言葉を目にする。あたかも彼女がデルフォイの神託を受ける巫女であるかのように(確かに彼女の出身地はイタコの産地でもあるが)、その言葉を崇拝気味に扱う向きもあるようだ。

しかし、彼女の言葉は、あたかもローマ帝国が世界を支配していたようにテレビが大衆を支配していた時代に有効性を持ちえたものであって、大衆支配の道具がネットやSNSに覇権交代した現状にはそぐわないと言わざるを得ない。

ナンシーの言葉に「有名人とは、テレビに出ている人のことである。テレビに出ていない人間は有名人とはいえない」というのがあるが、このテーゼが現在では明らかに有効性を欠くのは明白であろう。テレビには全く出ないが毎日何十万、何百万の人が見ているユーチューバー有名人などいくらでもいる。ガーシーなんてテレビには出れないが皆が知っている。能年玲奈もテレビにはほとんど出ないが……って事情が違うか。要するにもう時代がまったく違うのである。

だが、ナンシーの発想や物の考え方自体には普遍性がある、という反論もあろう。

確かに、彼女のエッセイの中には今でも有効性を持ち得る見解を示すものもある。しかし、それを今の状況に引っ張ってきて適用させたり応用することに積極的な意味があると思えるような言葉は少なくとも自分の読んだ限り存在しなかった。

ナンシー関という存在から今学ぶべきものがあるとすれば、それは「目に見えるものだけで判断する」という徹底した姿勢ではないか。

つまり、芸能通のみが知る”裏事情”や「見えないところで苦労している」とか「普段はいい人」みたいなところにまったく価値を置かないということ。そして自らが評する対象とは接点を持たず、余計な情報を入れないで、「誰もが見れる部分」だけで本質を見抜く、という態度である。

現代は<陰謀論>の時代である。「知っている人だけが知っている裏事情」や「ここだけの秘密」といったものが、かくも危険な時代はかつてなかった。今こそ、誰もが知っている(アクセスできる)事実のみに基づいて批評することが求められているのではないだろうか。

とはいえ、テレビさえ見ていればよかったナンシーの時代とは違って、今はネット時代であり、「誰もが知っている」の基準を設定すること自体が困難になっている。

ここで一つの基準になるのは、情報源を「ネットで無料で読めるもの」に限定すること、「有料コンテンツ」は無視することではないだろうか。

ぼくはこれこそがポスト資本主義時代の批評の基本姿勢であるべきと信ずる。

(単にケチなだけだろ、という見方もある。ちなみに自分が今お金を払って読んでいる有料記事は菊地成孔のブログのみ)