私の音楽に耳を傾けていてくれれば、人々はエネルギーを得る。
彼らは家に帰り、おそらく15年くらい経ってから言うだろう、
「15年前に公園で聞いたあの音楽は素晴らしかったなあ」と。
サン・ラー
1942年 28歳
徴兵拒否のための収監・懲罰から帰還し、バーミンガムの家でリハーサルを再開。
12人編成バンドを結成し軍キャンプやコミュニティーセンターなどで演奏する。
反戦姿勢に引け目を感じて先輩ミュージシャンに頼れず、若手を起用する。個人指導も行う。
1944年 30歳
ラジオから流れる、当時「狂った人々の音楽」と言われていたビバップを聞きながら、バンドのメンバーに「聴いてごらん、彼らは君に語りかけているんだよ。二人のプレイヤーがどうやって交流しているのかを聴いてごらん」と語る。
1946年 32歳
大叔母が死去し、人種差別が酷いバーミンガムを離れ、シカゴに行く決意をする。
シカゴで知り合いのバンドに参加しながら、クラブ・デライザで演奏していたフレッチャー・ヘンダーソンを訪ねる。やがて代役でピアノを弾く機会があり、演奏に加わるようになる。1952年にヘンダーソンがこの世を去るまで共に演奏する。
フレッチャーは全く天使のようだった。彼は人がそれまでやらなかったことを成し遂げた……彼は特別な存在に影響を受けて、ジャズをこの惑星にもたらしたのだ
ヘンダーソンに代わってレッド・サンダーズ・バンドがデライザのショーを務めるようになり、ソニーはリハーサル・ピアニストと採譜担当者としてさらに5年間残った。
1947年 33歳
リーガル劇場の隣にあったコンゴ・クラブで伴奏の仕事を始め、ビリー・ホリデイなどの伴奏を務める。
コールマン・ホーキンスと短期間共演する。
1949年 35歳
来た仕事は何でも引き受け、オーケストラやバンドで演奏し、教会のキーボード奏者を務めながらストリップ・クラブでも演奏する。ダンス・グループの伴奏バンドにも参加。プロジェクトのデビューの夜、ドラマーがソニーの楽譜を読めず、演奏に失敗して銃殺騒ぎになる。
聖書研究にますます没頭し、エジプト学にハマる。神智学やオカルト文献も読み込む。
1950年 36歳
緩やかなメンバー交代を伴う12人編成グループを持つ。
1951年 37歳
アルトン・エイブラハムと出会う。ミュージシャン以外の人々が集い、古代史や占星術、人種起源の独自研究を行う。のちにこのグループは発展してインフィニティという法人組織となる。
1952年 38歳
10.20 アルトンに勧められ、イリノイ州の法廷に改名を届け出、Le Sony'r Raとなる(Sun Raは実務用の略式名)。
サン・ラーは人ではなく事業名である…それはニューヨーク市で取得した証明書だ。…私の仕事は地球を変えること。キリストが事業証明書を取得していたら、十字架にかけられる必要はなかっただろう。当時の彼には合法的な権限がなかった…
彼のあらゆる努力にもかかわらず、ほとんどのシカゴのミュージシャンは彼のことをソニー・ブラントと呼び続けた。
1953年 39歳
ドラマーにロバート・バリー、バリトン・サックスにパット・パトリックを迎え、ザ・スペース・トリオを結成するも、パトリックが去る。
Le Sony'r Ra & His Combo結成。
1954年 40歳
「A Foggy Day」を録音。ザ・コズミック・レイズのための曲を作り録音する。
オクテット(のちアーケストラ)結成。金を稼ぐためのバンドではなく、「人前で演奏するようになるまで5年おそらく10年リハーサルしなければならない」とメンバーに告げる。
1955年 41歳
エレクトリック・ピアノを購入。レイ・チャールズと同時期に最初期の録音。
小さなクラブでバンド演奏するが、ほとんど金にはならず。演奏のスタイルはサン・ラーの宇宙哲学に沿ったもので、メンバーに「できないことをやれ」という注文を付け、1時間の演奏のために180時間リハーサルするなど尋常でないやり方をしていた。規律に違反したメンバーには重罰が課せられた。
1956年 42歳
マイルス・デイヴィスのグループの前座を務めた際、ジョン・コルトレーンと会い、4時間語り合う。
「Super Sonic Jazz」を自社として設立したサターン・レコードから発売。
ノーマン・メイラーがリハーサル演奏を聴いて衝撃を受ける。
1957年 43歳
「Jazz by Sun Ra Vol.1」発売。「ダウンビート」誌でナット・ヘントフに酷評される。
マイルス・デイヴィスは目隠しテストでこれを聴いたとき、「ひどい”ヨーロッパ”のバンド、何かレイモンド・スコットがやりそうなもの」とコメントした。
ライブで宇宙服を身に着け始める。
1961年 47歳
シカゴからニューヨークに拠点を移す。しばらくは仕事がなくバンドのメンバーも不安を募らせ、彼らは他のバンドで働いて日銭を稼いだ。
1962年 48歳
1月、カフェ・ビザールというビート族の店で演奏させてもらえることになる。
チャールズ・ミンガスがその店で演奏を聴き、彼らの擁護者となる。オーディションの手配までしてくれる。
サン・ラーがファイブ・スポットにミンガスの演奏を見に行った時、ミンガスはこんなところで何をしているのかと尋ねた。「私はヴィレッジにはよく来るんだ」とラーが答えると、ミンガスは「違うよ、私は君がここ地球で何をしているのかと聞いているんだ」といった。
映画館で「宇宙ジャズ」コンサートを行う。
イースト・ヴィレッジに拠点を移す。ジョン・コルトレーンと音楽について話す。
サン・ラーはヴィレッジにロフトを持っていて、人々を招き入れ鍋や何かを叩かせていた。私は出かけた。彼がそこにいたのを覚えている。彼は音楽を音楽抜きに見つけることができる。私は音楽について何も知らないが、感じることはでき、グループのために自分が本当に演奏しているように感じた。おそらくこれが私の探し求めていた世界、あらゆるものを組み合わせた全体的な生活であり、アーティストが留まらなければならない世界であると思う。(アントニオ・ファーガス:のちに黒人映画の常連となる俳優)
(閑話休題)
サン・ラーについては、菊地成孔が「粋な夜電波」の中で、こんな風に美しく紹介している。
彼はアラバマ州生まれのアメリカ人でしたが、人生のある日、「自分は誤って進化する愚かな地球人の愚行を正す為に、土星からやって来たメッセンジャーだ」と信ずるに至り、本名の「ハーマン・ブラント」を捨てます。
彼は「オーケストラ」という言葉と、「箱舟」という言葉の合成語である「アーケストラ」を率いて、同じビルディングで共同生活を始め、コミューンを形成し、その非常に平和的で小規模な新興宗教は、大変に美しい音楽によって、愚かな我々の進化を善導し続けています。
1993年に教祖であった彼自身が亡くなった後も、アーケストラは活動を続け、現在もほとんど養老院のような外見のままで、あらゆる既存のアメリカの教会で演奏活動中です。
つまり彼らはいまだに父の声を聴き、父からの音楽を受け取っては演奏している、というわけですね。
上に書いたチャールズ・ミンガスとサン・ラーとの会話が大好きだ。
もう一つ好きなエピソードがある。
ニューヨークにきて、演奏する場所がなくて暇だった時、サン・ラーは毎日ダウンタウンをぶらぶら散歩していた。
ある日、125丁目のあたりで痩せた黒人のティーンエイジャーに声をかけられた。
「やあ、サン・ラー」と挨拶をするので、サン・ラーが立ち止まって、彼が誰なのか尋ねると、
少年は「ぼくはゴッド(GOD=神)だ」と答えた。
サン・ラーは「はじめまして、ゴッド」と言った。
また別の日に、サン・ラーはその少年と再会した。
少年はサン・ラーを見て、こう言った。
「サン・ラー、ぼくは君が好きだ。だって、他の誰にぼくはゴッドだと言っても信じてもらえなかったから」
ケンドリック・ラマーはたぶんこの話をもとにして歌詞を書いた。
その歌詞もいいが、サン・ラーのこのエピソードのほうが気に入っている。