久しぶりに近所のブックオフに行き、吉田健一「文学の楽しみ」(講談社文芸文庫)と、110円のCDの棚を漁って1950年代のドイツ・ジャズのコンピレーション(MangelsdorffとかHans Kollerとか)とWu-Tang Clan「8 Diagrams」を買う。前者は当たりだったが、後者は全くピンと来ず。これがアフロ・マニエリスムの極北と言われても…これならケンドリックの方がずっと良い。
ドイツの50年代ジャズを聴いた後で、Cannonball Adderleyを聴くと、そのパワーの違いに圧倒される。単純に肺活量の違いというか。
「アフロフューチャリズム」という本を読むが、カタログ的に事象が列挙されているだけであまり得るところがなかった。サン・ラーについても分厚い伝記(ジョン・F・スウェッド「サン・ラー伝」と湯浅学「てなもんやSUN RA伝」)を読んだばかりなので特に目新しいところはなし。
上田晋也「激変」は前著の「経験」に引き続き面白いが、もっと三十代の出来事を時系列に振り返っているのかと思ったらそうでもなかった。これじゃ年譜の材料にはならない。
図書館で「新潮」最新号を見たら中原昌也のゴダール追悼文(「何も思い浮かばない」)と菊地成孔の金原ひとみ「デクリネゾン」書評と滝口悠生の「西村賢太追悼文集」の読書録が載っていたので読む。中原昌也はいつも期待を裏切らない。「デクリネゾン」はブックオフで半額で売っていたが買わず。
コロナがまた増えそうな気配だがうちの母親の東京のサ高住への引越しとぶつからないといいのだが、母親は年内にでも移りたがっている。荷物の手配とかが間に合うのか。本人は一日でも早く行きたがっているが、行ったら行ったでまた色々不満やら愚痴やらが出てくる気がする。だがそうなっても戻れる場所があると安易に考えてもらっては困る。
真魚八重子「心の壊し方日記」を読んで身につまされていたら、妻のほうでは
垣谷 美雨「姑の遺品整理は、迷惑です」 (双葉文庫)という本を買っていた。