War Is Over

 if you want it

Doors of Perception

フロイトの英語版全集をダウンロードしたので読めるところまで読んでやろうと思う。

自分が今とりあえず知りたいのは、自分の母親に対する嫌悪感のようなものが何に由来するのかということで、それが判ればもっとニュートラルに付き合えると思うのだ。

信頼できる分析医に診てもらうのが一番いいのだろうが、そういう機会も手づるもないのでとりあえず独習してみる。ただし、夢解釈にしても精神分析にしても分析医としての訓練を受けた人がいないと一人ではできないという意味はよく分かる。

無意識の領域に抑圧している記憶は見たくないから抑圧しているので、たとえ記憶を呼び起こそうとしても独力で抵抗を克服することは不可能だからだ。

それとは別に、フロイトの人生を改めて見ていると、この人は理論家である前に生粋の臨床医(職人)だったということがよく分かる。十川幸司氏によれば、「獣の単調さ」をもって何十年も変わらぬルーチン的生活を送って来た。彼の理論は頭から出てきたものではなく、日々の業務の中から、身体から出てきたものだから説得力があった。理論のための理論ではなく、彼が実感としてリアルに捉えたものだけを言語化し、定式化しようとした。

彼の精神分析理論とその実践は、それ自体が一つの芸術作品であった。彼は詩人の感性で人間心理の根源にあるものを掴もうとしたが、自分が手触りをもって確かにその存在を確信したものだけを素材にしてそれを行い、臨床の中に基盤をもたない空想や仮説の一切を排除した。

フロイト精神分析を行おうとする医師のために書いた指南書を読むと、彼自身の体験から得た実践的知識が惜しげもなく披露されている。

例えば、一日に十人もの患者に対処していく中で、彼らの自由連想をメモを取らずにどうやって覚えておけるのか。

そのためには、集中してはいけない、覚えようとしてはいけない、選別してはいけない。ひたすら受動的に、白紙の状態で、感熱紙のようにすべてを、記録しようとせずに記録することだという。

患者を助けようという熱意も邪魔になる。ひたすら受動的な凝視に徹すること。そういう助言がされている(まだほんの触りを読んだだけだが)。

こういうものは、マニュアル化することはできず、ある種の一子相伝の秘儀のように伝えていかなければならないようなものだと思う。

「野性の分析家」によって精神分析が壊されているのを嘆いている文章もある。一種の野狐禅のようなものだろう。

 

フロイトの「ジョーク(笑い)論」を読んでみた。彼自身がジョーク好きだということは前半で伝わってくるが、後半の理論部分は回りくどくていただけない。

笑いの原理については、

「緊張と緩和」(桂枝雀

「業の肯定」(立川談志

の二言で尽きている。ニッポンの勝ち。