明け方4時前に目が覚めて目が冴えて眠れないので年末に聞き逃した菊地成孔の「大恐慌へのラジオデイズ」と神保哲生と宮台真司の「ビデオニュース・ドットコム」を横になりながらイヤホンで聞いていたら7時になっていた。菊地成孔は今年は新しいことが始まる(世の中的に)と言っていた(予感として)。宮台真司はこの国はもうダメだから志を同じくする者たちが共同体のようなものを作って生きていくしかないというようなことを語っていて、なんだ、結局行きつくところは外山恒一と同じなの+だな、と思った。
Amazonレビューその他で評価が高く、千葉雅也も必読書として挙げているので、松本卓也「人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」と片岡一竹「疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ」を買う。
前者を読み始めたが確かに面白い。
New Jeansの新曲「OMG」は「Ditto」のMVと同じように様々な解釈を誘因する作りになっているが、「Ditto」がファンの立場を扱っているとしたら「OMG」はアイドルの立場を扱っているように感じた。5人が精神病院のようなところで診察を受けている描写には今読んでいるものとの妙なシンクロを感じた。毎度これだけのクオリティのものを作られたらこっちとしては降参するしかない。
昨日買った松村雄策「僕の樹には誰もいない」読み始めているが、菊地成孔のラジオの話が出てきたり佐藤泰志のことが書かれていたりで面白く興味深い。
つくづく、こんな文章が書けたらいいなあ、と思う。
芥川龍之介が志賀直哉の文章を読んで、「どうやったらこんな風に書けるんでしょうか」と漱石に尋ねたら、漱石は「うまく書こうなどと思わず、思ったままを書くとああなるんだろうが、俺にもあんな風には書けない」と答えたというが、松村雄策の文章にも同じようなものを感じる。
どちらも読みやすい肩の力を抜いた文章でありながら、その底には〈怒り〉がある。徳田秋声や正宗白鳥にもそういえばそんなところがある。
ある世代以降、表現の中から〈底深い怒り〉のようなものが消えたような気がするのは気のせいだろうか。底の浅い脊髄反射のような怒りではなく、この世の中を根こそぎひっくり返してやろうという沸々としたマグマのような怒りだ。
「来年」には東京を火の海にしたい、しなければならないという高揚と切迫の感情は党派無党派を問わず、1968年当時の活動家に広く共有されていた。…平和で繫栄する戦後社会の頽落に耐え難いものを感じ、黙示録的な破局と世界の一新を渇望していた青年たちが、その果てに「戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした」、「戦争なんだ」と一瞬だけにしても信じた。……「だって戦争なんだ」という「68年」世代の高揚と挫折の運命も、後続世代の外山氏には他人事なのかもしれない。しかし数千人の戦後青年たちが、黙示録的情熱に捉えられた事実は歴史として記録に値すると思う。
笠井潔「反復と逸脱―『68年』から持ち越されたもの」(「対論1968」より)
所謂団塊の世代とか全共闘世代には1ミリのシンパシーも感じないが、己の実存から発する怒りを持たず、「欲望に譲歩する」ひとびとが大半を占めるような社会はやはり滅びるしかないのではないだろうか。
有名なフランスの人権宣言は、後世につぎの原則を残した。すなわち、
「政府が人民の権利を侵害するときは、反乱は人民の権利の最も神聖なものでかつ義務の最も不可欠なものである。」…
われわれはまた、(ホセ・)マルティが、自由な国の市民の教育について、その著『黄金の書』のなかで次のように書いたのを教わった。
「不当な法律に従うことに慣れ、また自分を虐待する人間が自分の生まれた国をふみにじるのを許すような者は、誠実な人間ではない…。この世には、ある量の光がなければならないのと同じように、ある程度の品位がなければならない。品位をもたない人は沢山いるが、他方ではかならず、多くの人たちの品位を自身たちの身に着けている者がいる。その人たちこそ、人民から自由である権利を奪うーーつまり人間からその品位を奪うのと同じことだーー連中に対してすさまじい力で反乱する人たちである。その人たちは何千をかぞえる。その人たちこそ民族全体、人間の尊厳そのものである。」
1953年10月16日、サンチャゴ・デ・クーバの緊急法廷におけるフィデル・カストロの弁論(のちに「歴史は私に無罪を宣告するであろう」)より