二万歩近く歩き回ってヘトヘトになって戻る。
とりあえず一段落。
ここから先はもうどうにでもなれ。
歴史的対局の藤井王将VS羽生九段の一日目を急いでチェック。がっぷり四つの好局。
資料を図書館に返しそびれた。
そのうちの一冊、福原泰平「ラカンをたどり直す」からの引用。
主体とはそこに厳然とあるといった実体論的なものではなく、一つの可能性の次元を手にすることで設立された無への傾きを持つ存在である。それゆえ、主体は知を得て(盲目となり)楽園を追放されて以来、それが在ろうとして在りそこねたものそれ本来の場所に到達せねばならないという、欲望の命ずる重い責務を負うことになる。
「わたし」などというものは本来存在しないのだけれど、そのことが本当に腑に落ちたら、本来の生き方というものが見えてくる。見えてきたら、それに向かって誠実に生きることは一つの義務といえる。という程度に解釈した。
ラカンは少年のころにスピノザの「エチカ」を図式化した表を紙に書いてベッド脇の壁に貼っていたという。彼の「エクリ」は「エチカ」のシニフィアン連鎖ではないか。
彼の必要以上に晦渋な文体は、ナチス占領下のパリで検閲をかいくぐるために精神医として書いた解読不能な報告書の名残ではないか。
などと妄想する。
心に浮かんだあらゆることを、それを聞いた人がどう感じるかということをほとんど想像しないまま口にするという習慣が染みついている母親の相手をするのは、ある種患者の自由連想に耳を傾ける分析家の忍耐を必要とする。
善意の暴力に無防備なままに晒されてきた幼少時代を経て歪んだ成長を遂げた。
毒親という言い方があるが、世に毒親でない親がどれほどいるのか。
自分だって毒親かもしれない。いや、きっとそうだろう。
そんなことを考えさせられそうになっている。