「ラカンのところで過ごした季節」(ピエール・レー、小笠原晋也訳、紀伊国屋書店、1994)を図書館で借りる。
「1969年、パリ。〈わたし〉は精神分析家ラカンのもとを訪ねた―。ひとりの作家が、自分の10年にわたる分析経験をものがたる。「小説のように」読める、最良のラカン入門書」との触れ込みなので、期待したのだが、冒頭から自己陶酔的な持って回った文章が続いて、いきなり読む気を失う。
著者は生まれてからずっとまるで夢の中で彷徨ってきたようだ。ラカンという<師>の中にリアルを見出したように感じ、彼に<転移>し、借金やあらゆる方法で診療費を捻出し、ときには数分で終わる面接に通い続ける。
恐怖症が一時的に治った気になったが、それは束の間にすぎなかった。
この本を読んでも、著者自身のナルシスティックな独白が延々と続くだけで、ラカンがどんな治療を行っていたのか、その輪郭すら掴むことは難しい。つまり、得るところはほとんどない。それはラカンの著作を読んだとき(読もうとするとき)の徒労感に似ている。
Les non-dupes errent という言葉はこの本では「ばかされぬ者たちは誤る」と訳されているが、個人的には「欺かれぬ者は彷徨う」という訳のほうがいい。
これを一気に読めば「レノンデュペール」となり、les Noms-du-Pere (「父の名」の複数形)とまったく同音だという。ラカン・トリビアの一つと言えようか。