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稲妻に打たれた欲望

「稲妻に打たれた欲望: 精神分析によるトラウマからの脱出」(ソニア キリアコ、誠信書房というラカン精神分析の臨床実例集を読む。

監訳者の向井雅明によれば「日本ではよくラカン派の言うことは難解で理解できないという声を聞くが、著者の文章は平易で明快であり、語り口もうまくて大変読みやすい」ということだが、自分にはすごく読みにくかったのは自分のオツムの問題なのか翻訳の問題なのか。きっと前者だろう。

巻末の片岡一竹(「疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ」の著者)による用語解説はありがたい。これを丸暗記したい。

 

以前、ラカン精神分析を1969年から十年間受けた作家の回顧録についてケチョンケチョンに書いたが、あの錯綜した晦渋な文章の中からもラカンの臨床医としての実態について朧気ながら浮かび上がってくることもある。

例えば、これは開業している精神科医にとっては当たり前、というか職業の定義からして当然なのだが、彼のクリニックにはありとあらゆるタイプの神経症、精神病に罹患した(または罹患した可能性のある)人々が列をなしており、そのことに必然的に伴うトラブルが絶えなかった。時には窃盗癖を持つ患者がクリニックの近隣の店で物を盗んで苦情が来たり、患者同士が交際して性的関係が生じたり(もちろんラカンはそうしたことを患者に厳禁していた)、患者が自殺に至るケースも稀ではなかった。

この著者の友人(彼をラカンに紹介してくれた人)もある理由で自ら命を絶ってしまう。その友人はラカンの患者ではなかったが、著者はラカンに彼のことをよく語っていた。

著者がラカンを訪ね、友人が自殺したと告げたとき、ラカンはあの有名な「ボロメオの環」の模型を難しい顔でひねり回したまま、無言だった。

苛立った彼(著者)は叫んだ。

「それが彼の死に対するあなたの応答なのですか!」

ラカンは落ち着き払った目で著者を見つめて一言、

「きみは彼がそうする以外に何をすることを期待していたのか?」

 

ラカンにはセッションの度毎に治療費を手渡しすることになっていた。

著者には金が用意できず、そのために治療を続けられないとラカンに告げても、ラカンはそれを無視して、

「じゃあまた次回」

と言って彼を送り出すのだった。

結局彼は毎回何とかして金を工面して、税金滞納で差押をくらったときにも、友人に金を借りるなどしてラカンのもとに通い続けた。

ラカンが治療費をどのように決めていたのかはよく分からない。これは他の解説書に書かれていたことだが、その患者(分析主体)が治療に通い続けることに意味を見出すことができるかどうかを考慮した金額が設定されるという。

例えば資産家に高額な料金を設定しても、その人にとって分析のための出費は大したことではないから、分析を中止することに抵抗がなく、分析にも進展がない。ラカンは金持ちは分析できないと言っていたという。逆に所得が低い人は、たとえ低額であっても支払いを続けることで分析を進展させようというモチベーションが生じるという。

だから治療費を無料にすることはしない。人はタダで得られる物には価値を認めないというのは普遍的な心理であるようだ。加えて無料にすると患者の側に負い目のようなものが生じ、それは分析にとってマイナスとなる。

 

冒頭の臨床例集の著者、ソニア・キリアコはこう書いている。

分析を始める人は、自分でも何をもたらすのかわからない責任行為をまず引き受けることになる。精神分析は幸福を約束しないが、欲望を自由にすることで、新たな答えを作り出し、主体的な袋小路のように見えるものにひとつの出口を見出すチャンスを与える。このことは治療の事後的効果のみが証明してくれるだろう。

<インスタントな救済>つまり症状の速やかな改善を求める人は精神分析には向かないだろう。今の精神科医療で即効性のある薬物治療が主流であることは周知の事実だし、やむを得ないことでもあるのだろう。精神分析を「金持ちの遊戯」の一種のようにみなす向きもあるようだが、フランスはさすがに精神分析先進国で、自治体が企画する無料精神分析会などもあるとどこかで聞いた気がする。

ラカン派には、「分析主体」として分析を受け、分析を終了した人は、一人の分析家たりうるという考え方があるようだ。”正統派”フロイト精神分析協会から排除されたラカンは、独自の分析家養成のシステム(「パス」)を創設しようとしたがうまくいかなかったらしいが、そこで重視されたのが「分析家としての欲望」だという。

ラカンのいう「欲望」の使い方は特殊で一般的なニュアンスとは違うが、要するに「分析家が”天職”かどうか」みたいなことではないか。ラカンの発想には随所にキリスト教的な世界観を感じる。