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エレクとリック

外山恒一の伝記は週末の愉しみにとっておくことにして、先にフロイト技法論集」ラカンフロイトの技法」を読むことにする。〇〇の空き時間に頭を切り替えて読まねばならぬのでなかなかキツいものがある。とりわけラカンはキツい。「丸の内サディスティック」ならぬ霞が関マゾヒスティック読書。

松村雄策の「僕の樹には誰もいない」は、読み終えるのが勿体ないので、少しずつ読んでいる。

 

フロイトが「分析における構成」という小論の中で、患者が忘れてしまった早期記憶の断片を提示する場合の例として次のようなものを挙げている。

あなたは●歳までお母さんを無制限に独占できる唯一の存在だと自分のことを思っていたけれども、もうひとり赤ちゃんができて、深い失望を味わった。お母さんはしばらくのあいだあなたから離れ、そして再び現れた後もあなたのことだけにかかりきりになることは二度となかった。お母さんに対するあなたの気持ちはアンビバレントなものとなり、あなたにとってお父さんが新たな重要性を帯びるようになった

これを読んで真っ先に思い浮かんだのが、千葉雅也「エレクトリック」であった。

精神分析治療において例えば上のような「構成」を紋切り型のように患者に当てはめることは最も不適切な行為だし、小説などの文学作品をエディプス・コンプレックスの図式から解釈しようとする批評が陳腐なものにすぎないことは百年前から指摘されている。

しかしながら、「エレクトリック」における主人公・志賀達也の母親に対するアンビバレントな思いや父親への強い愛着を説明するのに、この構成はあまりに適合的であり、著者もこの図式を意識して描いたのではないかと思われる。つまり、「エレクトリック」の描く家庭像はきわめて古典的なものであり、ほぼ類型的といってもよい。

にもかかわらず、そこに<特異性>が認められるのはどうしてなのか。

前にも書いたように、この小説の特異性と達也が目覚めさせつつある同性愛的傾向とは直接、というよりまったく関係がない。達也がインターネットを通じて同性愛者のコミュニティと接触し、その世界に飛び込む狭間にある(彼が東京に行けばそれが全面展開されることは著者の作品を読んでいる読者なら誰もが知っている)描写はたしかに類型的ではない。だが他の作家が同じようなテーマについて書いてもこの小説のようにはならない。

そこには何か決定的な違いがある。

それを言葉にするのが文芸批評の仕事であるが、自分は批評家ではないのでこれ以上は書けない(そのうち妄想するかもしれないけど)。