INSTANT KARMA

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A Life of a "People's Enemy"

藤原賢吾「人民の敵 外山恒一の半生」(百万年書房、2023)を読む。

著者は西日本新聞の記者で、2020年のコロナ禍をきっかけに外山にインタビューし、連載記事を書いた。この本はそれをまとめたものらしい。

外山への確かな共感をベースにしつつも、彼のネガティブな言動や思想的な限界にもきちんと言及していて、バランスの取れた評伝となっている。

この本を読むのは、すでに彼についてあるていど知っていて、彼にシンパシーを感じ、評価している人が多いと思われるので、本人が書かないであろう事実(あるいは彼自身のバイアスのかかった見解によって記述される事実)がきちんと描かれていることは高い評価に値する。

彼の承認欲求の強さが母親との関係に起因することなど、これまで気づかなかった指摘もそちらこちらにあって興味深かった。

個人的に一番興味深かったのが、2021年に美術評論家福住廉の質問に答えて<暴力論>と<面白主義>について語られた外山の見解であった。

この発言は全文引用してもいいほど重要だと思うが、出たばかりの本を長々と引用するのは憚られるので要点だけを述べると、世の中を本気で変えるには暴力的契機が不可欠であるという認識の下で外山が採用している<面白主義>は、一つには従来の中核派などの過激な学生運動との差異化を分かりやすくするため、もう一つは時代の要請による便宜的手法であって、今の若い世代はもっと状況が深刻だからシビアな方法を用いてよい、というのがその趣旨だ。

これまでは状況の深刻さがなんとか誤魔化されてきたが、これからは誤魔化しが利かなくなる。日本も近い将来、香港やミャンマーやその他の世界各地に起きているような暴力的契機ぬきには政治運動の実践が不可能となるような時代に入るだろう。

近年の外山の活動は、そうした時期に行動する若い世代のために、運動の歴史と方法に関する基本的教養を与えることにより後継者を育成することにシフトしている。それはある種、フランス革命以前に起こった啓蒙主義のような役割を果たすものといえるのではないか。

また、資本主義以外の選択肢のない「資本主義リアリズム」の時代において、「もう一つの世界の可能性」を垣間見るために外山のような活動家がさまざまな政治的想像力を駆使して行ってきたその実践活動は、真の意味における「現代アート」であるだろう。

外山恒一吉田松陰なのか、大杉栄なのか、<西郷どん>なのか、その最終的な評価はこの評伝の続編である「革命家 外山恒一伝」が書かれる時までに明らかになるだろうか?