INSTANT KARMA

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Bat or Swallow

私個人は、こと小説に関しては、ただ才にまかせただけの観念の産物よりも、その作者自身の血と涙とでもって描いてくれたものでなければ、まるで読む気もしないし書く気も起らぬ

『どうで死ぬ身の一踊り』跋より

私小説作家・西村賢太の命日である二〇二三年二月五日付で、六十三冊目の単著となる単行本『蝙蝠か燕か』が刊行された。

この小説集には「廻雪出航」「黄ばんだ手蹟」「蝙蝠か燕か」の三篇が収められている。いずれも師・藤澤清造への「歿後弟子道」を主題に据えた作品である。

西村の没後半年近く後に芝公園を臨む都内ホテルで彼を偲ぶ「お別れの会」が催された際に、決して良い読者ではなかった自分も厚かましく出掛けてゆき、宝焼酎の並ぶ祭壇に一礼させてもらった。辞去する際に頂いた『どうで死ぬ身の一踊り』の初版本(西村の部屋に置いてあったものの形見分けという超貴重な物)をこの単行本と並べて机の上に置き、暫し眺める。

新刊の信濃八太郎氏の装画が相変わらず見事で、西村が生前に見たら絶賛したに違いない。

『どうで死ぬ身の一踊り』の初版の奥付は二〇〇六年一月二九日、藤澤清造の命日に合わせている。装幀題字にも清造の自筆を用い、装幀図版にも『根津権現裏』のものを流用するなど、装幀から紙質、活字のレイアウトまで西村の拘りが貫かれている。

冒頭の『墓前生活』は、初出は文芸同人誌「煉瓦」二十八号(二〇〇三年七月)。西村の処女作である(それ以前に自費出版本に書いた私小説が二本あるが除く)。

最新刊の冒頭の「廻雪出航」を読んだのちに、改めて「墓前生活」を読み返し、その文体の一貫性に撃たれる。

石原慎太郎から自分の作品についてどう思うかと問われた西村はこう答えた。

心底、空っ下手だと思っています。それでいて、いまだに変な自信はあるんです。といいますのは、私小説をずっと書き続けているんで、石原さんも一時危惧してくださったように、やっぱり一見、同じような内容に見えざるを得ないんですよ。結局、自分のことを書く上で、その経歴とか思考や行動原理を変えるわけにいかない。デビューして十三年ですが、その間、同じ主人公を書き続けていくうちには普通の人間はめげるんじゃねえかと思うんですよ。書くことがなくなったり、自家撞着とか自己模倣に陥って行き詰まるはずなのに、しかし今のところ、少なくとも自分の中では行き詰まらずに、書きたいことがいくらもある。私小説のコツを何も知らねえ馬鹿な編集者や評論家からは、二、三作発表してすぐに消えると侮られ、いいように干されまくってた僕の一つ覚えの一つ芸も、これで十三年続けているうちには、ちったあ板についてきつつあるんじゃねえかと思ってるんです。

ちなみに「廻雪出航」の初出は「文學界」二〇二一年二月号だから、作家デビューしておよそ十八年近く経ってからの作である。内容は、藤澤清造の故郷・七尾に部屋を借り、新宿一丁目のアパートとの二重生活を始めた頃の話。ちょうど「墓前生活」に描かれている年代に重なる。この二作が同時期に書かれたものだと言われても西村の小説にあまり馴染みのない読者には何の違和感もないだろう。

だが注意深く読めば、この二作の間には相当な心境の距離があるのに気づく。

藤澤清造の嫂が尽力してできた墓標を西光寺から新宿一丁目の居室に貰い受けることに成功した西村は「墓前生活」の末尾にこう書いていた。

部屋の一隅に墓地のある生活は、私には快適だった。何か自信、と云ったようなものが、生まれて初めて自分の中に漲っているのを感じた。

ここには、亡き師・藤澤清造の無念を引き受け、人生を棒に振る覚悟で「最後の一踊り」してみせるという気概と前向きな希望がある。

それが、十八年後に書かれた「廻雪出航」の末尾では、

果たして、その人の無念を引き受けさせてもらえるのだろうか、との、結句は誰からも永遠に答えを明示されない虚しき問いを、ただ己が心の内で、何度も何度も繰り返していた。

との自問自答が前面に出てきている。

この二作のコントラストは隅々にまで行き届いていて、「墓前生活」の冒頭の一文(名文である!)では「午後のぬくとい陽ざし」の中で「わずかに咲き始めている桜の木」が、「廻雪出航」では「重々しく垂れ下がって拡がる灰色の空と、それよりも一層に暗く、不気味な黒波の立つ海には、一面に廻雪が渦巻いていた」ことになる(なお、二作とも主人公は「北町貫多」ではなく<私>である)。

この自問自答、「果たして自分に、師の無念を継ぐ資格があるのか」「自分のしていることは本当に師の役に立っているのか」との根元的な疑念は、西村の最後の中編小説となった「蝙蝠か燕か」の中心的なテーマに据えられることになる。

この小説の中で<貫多>は、「どうで死ぬ身の一踊り」三次文庫化のため「墓前生活」のゲラを読み返しながら、「あるもの」を回想する。

そう云えば件の「墓前生活」の中には叙していないが、二十二年前のその日は西光寺の境内で一個の奇妙な物体が空を舞っていた。その山門にはなの一歩を踏み入れた途端、貫多の頭上の視界に入るギリギリのところを、黒い影が横切った。

「蝙蝠にしてはやけに飛行が辷らかで、燕にしてはその残像の些かまだるっこしい、変にチラチラした動きのもの」が、都合三度も藤澤清造の墓前に佇む貫多を横切ったので、

のちになって思い返すと、これは貫多の脳中に案外深く刻み込まれていた一景であった。

この小説のラストシーンで、芝公園の六角堂跡に佇む北町貫多は、歿後弟子道の再出発を心中に起し、「恰も初手の出発と此度の始動を重ね合わせたその表象として、あの日に見たところの、群れから取り残された蝙蝠だか燕だかの黒点を頭の中で翻えらせる」

ある物をして「何か象徴的、暗示的な事柄をこじつけようと」いう書き方は西村賢太のスタイルではないし、ここでも西村は先手を打って否定しているのだが、それだけにこの「変にチラチラした動きの」「蝙蝠だか燕だかの黒点」は、この作品の中で特異点とでもいうべき存在感を持っている。

分析的な読みは西村の私小説には相応しくないことを承知で書けば、この「蝙蝠だか燕だかの黒点」が象徴するのは、「果たして自分に、師の無念を継ぐ資格があるのか」「自分のしていることは本当に師の役に立っているのか」との根元的な疑念のことであると解釈するのが自然であろう。

であればこそ、藤澤清造の墓前で藤澤を終生の師と定め、その無念を引き受けることを誓った瞬間に頭上を横切った「黒点」のことを、西村は「墓前生活」において叙述から排除(抑圧)したのである。

だが、抑圧していたこの根元的疑念は次第に西村の中で無視できないほど大きくなり、遂には意識の前面を絶えず横切るようになった。それが故に作品中に登場することを強いられた「疑念」の表象が「蝙蝠だか燕だかの黒点」であると見るべきだろう。

そうすると、小説の締めくくりに貫多が「恰も初手の出発と此度の始動を重ね合わせたその表象として、あの日に見たところの、群れから取り残された蝙蝠だか燕だかの黒点を頭の中で翻えらせる」ことは、辻褄が合わない描写のように思える。それは本来なら振り払うべき疑念を、わざわざ想起しようとする行為だからである。

くだらぬ分析を始めた成り行き上、強引に進めていくと、以下のような解釈が可能かもしれない。

「果たして自分に、師の無念を継ぐ資格があるのか」との根元的な疑念は当初から西村の中に存在していたのだが、無我夢中で藤澤清造研究と全集刊行にむけての活動に没頭しているうちは、その疑念を覆い隠すことができた。言い換えれば、疑念に直面することができず抑圧していた。

しかし次第に「自分のしていることが本当に役に立っているのか」(=只の自己満足にすぎないのではないか)との疑問が抑えきれなくなり、抑圧していた思考の表象として「蝙蝠だか燕だかの黒点」の存在が蘇ってきた。言い換えれば、疑念に直面せざるを得なくなった。

そこで西村(貫多)が見出した答えは、「開き直り」である。「歿後弟子」たることを定め、「人生を棒にふってきた」自分にやるべきことはこれしかない。

「自分の為すべきことはやり続けるより他はない」

こう吹っ切ることで「晴れやかな心情」に達した西村(貫多)にとって、もはや「蝙蝠だか燕だかの黒点」は抑圧すべきものでも、回避すべきものでもない。むしろ歿後弟子の再始動の表象として(或いは己への戒めとして)積極的に想起すべきものとなったのである――

作家本人からすれば唾棄にしか値しないお粗末な分析ではあるが、当人たる作家自身は死んでるのだから、これは残念ながら手の施しようがない。何をどうされようと、死後にかような対象にされた人物は、文字通りの知らぬが仏なのである。

最後に、これは案外的外れじゃないと自負してるのだが、

蝙蝠=bat 

燕=swallow

が西村の好きな野球とスワローズの隠喩であることはどこかで意識したと思う。

他にも意外とマニアックな暗号が彼の小説のタイトルや何かに隠されている気がする。

根がスタイリストにできてる西村賢太のやりそうなことではないか。