INSTANT KARMA

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過去のどこかで

昨日は西村賢太の音楽的嗜好について考えてみたが、

今日は<漫画>について。

西村賢太の作品(主に随筆)に登場する漫画の中で一番重要なのは、山田花子だろうと思う。2008年1月5日の日記(松の内抜粋「野性時代」)に、次のような記述がある。

平成四年に自裁したと云う漫画家、山田花子の『自殺直前日記』(太田出版)を繰りだしたら、どうにもやりきれぬ気分になってしまった。が、一気に読了。この人の漫画を探して読もう。

2012年には、青林工芸舎による<山田花子フェア>に文章を寄せ、4月26日の日記には次のように書いている。

山田花子の著書五冊、青林工芸舎高市真紀氏より届く。いじめやメンヘラを、自らは血を流すことなく、ただ観念のみでこねくり回した、馬鹿な文芸編集者とヤワな読者が大喜びするような昨今の一部純文学(?)なぞ、山田花子の世界の前では、如何に都合のいい妄想の産物であるかが知れる。しかし、この人の漫画は読むほうもヘトヘトに疲れる。

これは、「こと小説に関しては、ただ才にまかせただけの観念の産物よりも、その作者自身の血と涙とでもって描いてくれたものでなければ、まるで読む気もしないし書く気も起らぬ」という西村の言葉を思い出させる。ヘタな小説よりも自身の血と涙で書かれた漫画の方を表現として評価する賢太の姿勢は一貫している。

ついでだから、その他にも山田花子について言及している日記の記述を抜粋しておこう。

2018年10月9日(火)

腰は痛むが、六日ぶりにサウナ。帰室後、山田花子の著作をあれこれ復読。読むとぐったりと疲れる。心奥のデリケートな部分を搔きむしられる故にであろう。

2018年10月10日(水)

山田花子自殺直前日記改」文庫版解説書き送稿。

西村がこの本(「自殺直前日記改」)に寄せた帯文。

面識がないのに、過去のどこかで関わった存在。「見て見ぬふりして、無理にも顔をそむけたその存在。」つまりこの人は、弱者にとって 忘れられない存在だ。

西村賢太がこれほどに熱い共感を寄せた漫画家は彼女が随一であろう。

そこには、単なる嗜好というものを超えた、ある種、藤澤清造への思いにも似た強烈なシンパシーが感じられる。

山田花子は、周知のとおり、24歳の若さで命を絶った。いじめ体験や周囲との違和感、生きづらさをテーマにしたそのギャクマンガは、痛々しくて読むのがつらいので、正直ぼく自身は彼女の作品を好んで読むことはなかった。

しかし西村賢太は、「読むとぐったりと疲れる」といいながら「心奥のデリケートな部分を搔きむしられる」ようなマンガ体験を好んでいたようだ。

「心奥のデリケートな部分を搔きむしられる」という表現は、まさに西村賢太私小説を読んだ時の感覚と共通するものがある。山田も西村も、どうしようもない自分自身の姿を自虐的に曝け出すことで、勝目梓がいうところの「負のカタルシス」(文庫版「夢魔去りぬ」解説)を読者に与えるタイプの作風であった。

しかしこの両者を比べた場合、明らかに表現者の技量としては西村の方が上である。なぜなら、山田は自己の苦しみを生のまま提示していて表現者と表現との間に距離がないが、西村は己れの苦悩や惨めさを小説上の魅力に転化させる表現を意識的に行っていたからだ。ただその分、表現としてのパワーは前者の方が後者を凌駕する場合がある。

西村賢太は、山田花子の表現のもつパワーと、自らの生命を犠牲にして一つの表現としての人生をを貫徹させた事実の重さ(たとえそれが意識的な表現でなくとも)の前に頭を垂れたのであろう。そこには「死にざま」という問題が重く横たわっている。

西村が熱中した田中英光藤澤清造はいずれも文学史上特筆すべき凄まじい死を遂げている。よくある文学者の自殺や事故死とは違う。西村賢太には確かに凄惨な「死にざま」への憧れのようなものがあったと思う。

ただし、田中や藤澤の死に対する思いと、山田の死に対する思いとの間には、ある違いを感じることも確かである。

「見て見ぬふりして、無理にも顔をそむけたその存在。」

という言い方が引っかかるのである。

加害者目線なのだ。