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人の望みの喜びよ

今販売中の『文藝春秋』に掲載されている芥川賞受賞作、井戸川射子『この世の喜びよ』、佐藤厚志『荒地の家族』を読んでみた。

読んでみた、といっても、きちんと読んだわけではなく、流し読み程度なので、ちゃんとした感想は書けない。何度も読み返せば、違う感想になる可能性は濃い。

 

井戸川射子『この世の喜びよ』は、主人公を「あなた」と呼ぶ二人称で書かれていて、絲山秋子「妻の超然」を思い出した。「妻の超然」が主人公を突き放すような書き方(超自我的?)をしているのに対して、この小説は作者自身の言葉でいうと主人公を「見守るような視線」で書かれていて、受ける印象がまったく違う。

平凡な主人公の特に劇的な物語性もない平凡な日常をリアリズムで描く、あるいは斬新な表現で非日常に変容させるという小説は自分の好みである。

だからこの小説は期待を持って読み始めたのだが、残念ながらあまり入って行けなかった・・・

これは本当に相性の問題だと思うので小説の客観的なクオリティとは何の関係もないと思う。それでも自分なりに屁理屈をこねてみると、主人公に寄り添い見守る眼差しの二人称の語りがどうしても承認装置として機能してしまい、作品世界を予定調和の自閉的な空間にしてしまっている気がした。だからエンタメではない純文学に必要な「既存の世界観を突き破っていく何か」としての<特異性>が「詩的で感性豊かな言い回し」の中に埋もれてしまっている印象がある。

もちろん文章は上手いし言語的にもイマジネイティブな表現に溢れていて、日常描写を凡庸さを超えた文学的魅力で満たすことにある程度は成功しているのだが、作品世界のコアな部分に手が届かない歯痒さがあって一つ一つのエピソードが刺さってこないのだ。

こんな抽象的な書き方ではなくもっと具体的に指摘しないといけないのだが今手元にないので仕方ない(小説のタイトルはちょっと唐突な感じがする)。作者の確かな才能は感じるので、評価の高い「ここはとても速い川」という作品を読みたくなった。

 

佐藤厚志『荒地の家族』は「震災後の人々の生活を地に足の着いた筆致で描くリアリズム小説」という勝手なイメージを持って読み始めたが、確かにそういう感じの小説であった。作者は仙台市在住で、佐伯一麦ら地元の作家に作品を読んでもらったりしたこともあるそうだ。この小説を読んで、そうだろうな、と妙に納得した。

感想としては、悪くない、悪くないのだが、自分が過去に芥川賞作品を順番に読んでいたときの退屈でうんざりした気分を思い出した。

芥川賞は新人賞だから、まだ未熟な部分があるのは当然であり、既に名を成した有名作家にもつまらない小説はいくらでもある。だから受賞作や受賞作家のことを批判したくはないというのが本音である。

あの西村賢太の「苦役列車を読んだ時も、そのときにはつまらない小説だと思って読み捨てている(そして十年後にそのことを悔やんでいる)。だから本当に面白い作品が別にあるのに、たまたま出来の悪い方の作品で受賞してしまったという不幸もあるのかもしれない(井戸川射子もそうなんじゃないかと思っている)。

言い訳めいた言葉を連ねるが、自分はこういう「地に足の着いたリアリズム小説」が好きだ。だからこの作品が評価されたことは嬉しい。でも、その一方で「リアリズムならいいってもんじゃないよな」とも思う。

本物のリアリズムというのは、現実をありのままに描きながらも、必ず現実を超えた何かを垣間見させる。それを<特異性>とか<裂け目>とか言ってもいい(最近読んだラカンの受け売り)。それは<作家自身の姿>である場合もあるし、作品から滲み出る<もののあはれ>であったりする。

そんな作品を書けるのは、プロの作家にとっても稀にしか起こらない現象だろう。

しかし芥川賞を受賞するような作品には、なんかこう、そういうものを求めたくなってしまう。