INSTANT KARMA

We All Shine On

Anti-natalism

ずいぶん前に見た、大江健三郎の執筆活動を追ったドキュメンタリー番組で、大江がこんなことを語っていた。

「過去にあらゆる偉大な小説がすでに書かれているのに、あなたはなぜ小説を書こうとするのか?」と問われるとき、私はこう答える。

「過去にあらゆる偉大な人生が生きられているというのに、あなたはなぜ生きようとするのか?」と。

当時これを見た自分は感動を覚えた記憶があるが、千葉雅也のツイートは、この大江の最後の問いかけに対して、

「あなたの言うとおり、私には生きている理由がない」と答えているに等しい。

反出生主義(antinatalism、アンティネイタリズム)を正面から掲げている人物が今の日本にどのくらい存在するのかは知らない。上に挙げた千葉の一連のツイートは、日本の知識人による反出生主義の表明として影響力を持つのではないかと思う。

少し前に「人を殺すことがなぜいけないことなのか」というような議論がブーム(?)になった記憶があるが、今の世界は、それをさらに深化させた問いかけが行われるような状況に至っているということだろう。

「夜と霧」で有名な心理学者ヴィクトール・フランクルは、「生きる意味」とはあなたが問いかけるべき問いではなく、あなたが答えるべき問いなのだと言う。

あなたは人生の中で絶えず、あなたが置かれた具体的状況の中で、どう生きるのか問われている。つまり生きる意味とは、外から与えられるものではなく、あなたが作り出すものなのである。

これはユダヤ強制収容所という究極に過酷な状況を体験したフランクルの言葉だけに、一定の重さと説得力を持っている。

彼に倣えば、人類がもう限界だと思えるような状況の中でどう振舞うのかが、一人一人に問われているということになるのだろう。

今と似たような状況というのは米ソ冷戦時代にもあって、世界はいつ核戦争が起こっても不思議ではないという緊張に包まれていた。1980年代の日本はバブル景気に向かって軽薄短小で表層的な享楽が持て囃され、軽い躁病のような状況にあったが、その時代に十代を過ごした自分にとっては、全てが嘘くさく、絶滅に向かう人類の末期状況を覆い隠すバカ騒ぎにしか思えなかった。

60年代に「Don't Trust Over 30」と叫んだ若者たちの世代ががその後も延々と生き永らえ、二十一世紀の今頃になって次々に長寿を全うしているように、80年代に全てが嘘くさいと感じて終末観を抱いていた自分も、ダラダラと続いていく世界を眺めながら、「もう人類は、最も偉大な音楽も、最も偉大な絵画も、実現してしまった」とか「人類はもう限界だ」とか思いつつ、「なんか、全体的に、もういいや、となってきてる」。千葉の感慨は自分にとって非常にリアルである。

深刻化する幼児虐待事件の増加や、8050問題→9060問題などを見ていると、この世に新しい生命をもたらすことを無条件に素晴らしいことだと断言することがますます憚られるような気になってくる。政府による少子高齢化対策はこうした問題の解決と同時に進めない限り自家撞着を起こすに過ぎない。今国際的に炎上している「高齢者は集団自決すべき」発言も、アンティネイタリズムの過激な裏返し表現といえなくもない。

二十一世紀の思想的課題は、アンティネイタリズムをいかに克服するか。