INSTANT KARMA

We All Shine On

佐久間宣行年譜(超暫定版)

1975年(昭和50年)

11月23日、福島県いわき市に生まれる。

幼稚園児の頃から気に入った本を小さいバッグに入れて常に持ち歩き、父からは「同じ本を何度も何度も読んでいて、何が面白いんだろうと思ってた」とのちに言われた。

好きなものに対する集中力はすごくあったんですよ。例えばおもちゃ屋さんで好きなおもちゃを平気で3〜4時間見ていられました。一方で、おしゃべりで落ち着きのない子だったので、お袋からはよく心配されました。家族でレストランに行っても、料理が来る前にうろうろ歩きまわってはいろんな人たちに食べ物をもらっちゃってお腹いっぱいになり、自分が頼んだ料理を食べられずに怒られるということもありましたね(笑)。

1981年(昭和56年)6歳

映画のび太の宇宙開拓史』を見て、世の中にこんなに面白いものがあるんだと衝撃を受ける。

小学生の頃は背が低くて運動神経もいいほうではなかった。空想を巡らしたり、好きな本をずっと家で読んだりするのが好きな子どもだった。

家は普通のサラリーマン一家。父は仕事ばかりしていて、煙草を吸って、麻雀とパチンコをやって、野球を観るのが好きだった。母は真面目でいい人。母方の祖父がとても奔放な“趣味人” だった。祖父は東京に住み、よく本を送ってくれていた。

小学生の頃はイギリスの作家エドマンド・ウォレス・ヒルディックの「マガーク少年探偵団」という児童文学シリーズが好きで全巻読破したんですけど、それも最初の一冊はおじいちゃんがくれたものでした。ほかにもおじいちゃんは自分で読んで飽きた本をそのまま送ってくるんです。だから変なタイミングで突然『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が10巻送られてくるなんていうことも(笑)。  

小学生相手に『攻殻機動隊』で知られる士郎正宗『ブラックマジック』が送られてきたりするんですよ。すごいエッチなシーンもあるのに、そういうの気にしないんです。ほかにも落合信彦『狼たちへの伝言』とか。

小学校の高学年までは家に1台しかテレビがなく、ゴールデンタイムはほとんど父が野球を観ていた。当時、剣道やミニバスをやっていて、帰ってくる頃には野球の時間だっため、夕方のアニメをちょっと観るぐらいでほとんどテレビは観ていなかった。

テレビをちゃんと観た記憶は、土曜の午後など、父親がいないとき。当時だと特攻野郎Aチームなどのアメリカのドラマが土曜の15時から放送されていたんですけど、それは大好きでしたね。

1988年(昭和63年)13歳

中学1年で転校し学年で3位の成績をとる。学校では一気に“勉強できるキャラ” になる。

ラジオとの出会い。

中1でやっと自分の部屋がもらえたんです。それまでずっと妹と一緒で、1人になって夜更かしができるようになって。最初に聴いたのは、ニッポン放送三宅裕司ヤングパラダイス。僕は、福島県いわき市出身で、いわき市って海沿いの街なのでギリギリ東京のキー局の電波が入るんです。で、その時間帯はニッポン放送を聴く習慣がなんとなくできて。するとANNもその続きで聴き始めるじゃないですか。最初はとんねるずさんだったと思います。あと、伊集院光さんを聴いたり。いちばん夢中になったのは、川村かおりさんと電気グルーヴかなあ。それが1990年代初頭、高1ぐらいの頃。土曜の2部。川村さんの番組が終わって電気グルーヴが始まって。のっけから悪口連発で面食らったけど、めちゃくちゃ面白くて。そこからナゴム(注: 電気グルーヴの前身バンド「人生」が所属していたケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰のインディーズレーベル)の音楽などを聴くようになっていって

テレビのバラエティにも興味を持つ。

初めて好きになったバラエティは夢で逢えたら(注: ダウンタウンウッチャンナンチャン野沢直子清水ミチコによる伝説の番組)。それまでは、ドリフも『ひょうきん族』も、夢中になるほどではなかったんです。『夢で逢えたら』は初めて自分のセンスに近い笑いだと感じられたバラエティでした

1991年(平成3年)15歳

福島県立磐城高等学校入学。

当時は男子校で嫌だったんですけど、多様な選択肢があったわけでもなく、そこを受験しました。でも結果的にこの選択はよかったですね。大学受験のことを考えている生徒が多かったので、僕も進路について自然と考えることができましたから。それに、あれだけ嫌だった男子校に行ったからこそよかったんだろうなと思うこともちゃんとありました。

女子の目をなんにも気にせずに過ごせたということです。僕、オタクだったんですよ、中学生の頃から。アニメが好きで。当時からアニメ雑誌アニメージュとかも読んでいたんですけど、中学校は女子もいるからアニメが好きだということは伏せていたんです。男子のみんながBOØWYが好きだと言っているのに合わせないといけなかった。

高校時代は部活に入らずマンガやSFばかり読んでいた。図書館にあった横山光輝三国志をひと月ずっと読む。

帰宅部だったので親父がいないうちに。あとはもうさすがにビデオがあったので、そのおかげで観られました。やっとバラエティ番組も楽しめるようになったんです。親父が野球を観ている時間に先に寝て、家族がリビングにいないタイミングで録画していたビデオを観て、そのあと深夜ラジオを聴きながら勉強する、という生活を送っていました。その影響で今でも深夜ラジオは好きですね。

1994年(平成6年)19歳

早稲田大学商学部入学。

家にそんなにお金がないから国立大学に行こうと思い、最初は筑波大学を志望していました。当時はもうカルチャーにすごい興味が出てきていて「東京に行きたい」という気持ちが強かったのですが、筑波に通いながら週末の度に東京に行けばいいだろうと。距離感がわかっていなかったんですが、これは考えが甘かったですね。高校3年のときに筑波大学に見学に行ったら、え、めちゃくちゃ遠いじゃん……となって。

東京に行ったら三谷幸喜さんの舞台とか、岩井俊二監督の映画とか、あとはミニシアターでしかやってない映画とかを観るんだ! と意気込んでいたのですが、これはどうやら筑波からだと無理だぞと思い至りまして。だから、すぐに志望校を早稲田大学に変更しました。それから親父とお袋に頭を下げて、「奨学金をもらいながら最初は家賃の安い寮に住むので、東京の私立大学に行かせてください」と頼みました。

東京に出て来てすぐの頃、ABCラジオ誠のサイキック青年団(注: 北野誠の人気深夜番組)のイベントに行きました。高校の頃、〝サイキッカー〟だったんで(笑)

大学で最初に声をかけられたサークル(広告研究会)に入る。当時から100人以上が所属する大所帯で、コピーライティングチーム、イベントチーム、CMチームなどと分かれ、1〜2年生の頃は営業担当としてスポンサーを見つけてくるのが仕事だった。

この仕事があまりにも大変で、2年生のときに「こんなことをやりたいんじゃない!」と思って辞めてしまったんです。でもそこには結構面白い人たちが同期にいて。ドラマ「テセウスの船」(TBS系)などを手掛けている大映テレビ渡辺良介DREAMS COME TRUEのコンサートをプロデュースし、今は日本テレビに在籍している依田謙一、『ゆれる』がカンヌ国際映画祭に正式出品された映画監督の西川美和、といったずばぬけた才能を持つ人ばかりが在籍していたので、たくさん刺激をもらいました。

クリエイターになるのは早々に諦め、しばらく引きこもり生活を送る。

3年生からは空いている時間にライブに行ったり本を読んだりしてカルチャー漬けの生活を送る。

ただ、大学のときに下宿していた場所が電波障害のあるところで。ラジオが全然入らなくなってしまったんです。だから実は、ブランクがあって。そこからポッカリ5年ぐらい、96年ぐらいから2000年ぐらいまで、社会人になって引っ越しするまでまったく聴けてないんです。それで、就職してから、ナインティナインを聴きたいなあと思い、少しずつ聴いたりもしましたが、いかんせん、なかなか10代の頃のようにはいかない。だから、正確にいうと、radikoなんです、僕の中で完全にラジオカルチャーが復活したのは

1999年(平成11年)24歳

4月、テレビ東京に入社。

マスコミは向いていないのではという気持ちもあり、メーカーや金融、商社を中心に受け、就職氷河期だったがかなり内定が取れた。

軽い気持ちで受けたフジテレビの入社試験で役員面接まで通過。フジテレビ側の面接官で、当時『踊る大捜査線』のプロデューサーであった亀山千広(後にフジテレビ社長)に「君はテレビ現場に向いている」と言われたことがきっかけでモノづくりに興味を持つ。本腰を入れて就職活動を始めたが、エントリー期限に間に合ったのがテレビ東京だけで、同社に願書を提出、採用され入社。

テレビ局は反対されました。お袋には特に。30年前の福島なので、テレビ東京系列のネット局は福島にはないんですよ。だから、「は?」って感じでしたね。ほかの内定先の話もしていましたから余計に。

お袋からは「商社か通信会社に行くべきじゃない? 一生食べていけるよ」と言われました。テレビ東京は本当に零細企業だと思われていたようです(笑)。大学の友達もみんな同じリアクションでしたよ。何人かの親友たちが、「まあでもお前、マスコミの方が向いてんじゃない? クリエイティブやった方がいいんじゃない?」って言ってくれましたが。

入社1年目の1999年に、電気グルーヴ石野卓球さんが主催する「WIRE」っていうテクノイベントの第1回が開催されて、それに行くために葬式だって嘘ついたんですよ。あまりにベタですよね。案の定すぐにバレましたけど。でも本当にそんなベタな嘘をついてでも行きたかったんです。ただ、「WIRE」も第1回だし、そもそもクラブのレイヴイベントがどういうものかもよくわかってなくて、あれって盛り上がるのは夜中なんですよね。わざわざ嘘ついて仕事を抜け出さなくても、仕事終わりの夜中から行けばよかったじゃんって、あとあと気づきました(笑)。「WIRE」は嘘ついて行きましたけど、入社2年目くらいまでは、やっぱり演劇にも映画にも行けなくて、好きなゲームとかもやる時間なかったですね。

ADの頃って本当に会社で寝ていたんですよ。みんなで。で、みんなで起こし合うみたいな感じでやっていて。

あの頃は眠い時、辛いものとかガツンと来るものを食べて、目をバッキバキにさせて働いていたんだけど、だいたい現場でお腹が痛くなっていて。徹夜が続くと『体調が悪いな……』と思っていたんだけど、毎回、徹夜を乗り切るために激辛ラーメンとかを食べていたんですよね。“それだな”って気付くのに5年かかって。徹夜が続いた時は、優しいものを食べるっていうのを、今は鉄則にしています。

昔は、床で寝るっていうのは基本で。でも20代半ばぐらいになって、圧倒的なぎっくり腰になって、全く動けなくなって。家でのぎっくり腰はまだいいけど、会社でぎっくり腰になるとトイレにも行けないから……。トイレまでほふく前進で行って、途中でつらくなって、会社の廊下で泣いたことがある(笑)。

昔のテレビ東京は、廊下にカーペットが敷かれていたんですよ。ぎっくり腰だし、翌朝のロケが迫っていたから『このまま寝よう』と思って、(トイレに行く途中の)エレベーターホール辺りで寝たことがあって。……バイオハザードですよ(笑)

入社して2、3カ月のころは、「大学まで卒業して、なんでこんな知性がまったくないような仕事をやらなきゃいけないんだ。しかも徒弟制度で」と思って愕然(がくぜん)としましたね。そのころテレビ業界はいまより厳しくて、全員のたばこの銘柄と、コーヒーにミルクを入れる入れないを覚えなきゃいけなかったんです。俺、ディレクターやりたくて入ったのに、なんでこんなことしなきゃいけないんだろうと思って、辞めようとまで思ってましたね。

「国産ひな娘」という深夜ドラマのADをやっていたとき、小道具づくりで「サッカー部の女子マネジャーの弁当、おまえがつくってこい」って言われて、めちゃくちゃイヤだったんですけど、工夫してサッカーボールの形にしたおにぎりとか入れるようにしたら、そのシーンがお弁当中心の脚本に変わったのを見て、「雑務だと思ってたのは俺だけかな」って気づいたんです。そんなことをやってたら「おもしろいADがいる」ってなって、仕事が少しずつ変わってきたんです。

2000年(平成12年)25歳

入社二年目でTVチャンピオンのADになり、企画書を出しまくる。「3分料理選手権」という企画で初めて採用される。

2001年(平成13年)26歳

10月、「ナミダメ」でプロデューサーとしてデビュー。1月には終了が決定するが、「ナミダメ・バトルロワイヤル」という企画がATP賞で評価される。

2002年(平成14年)27歳

テレビ東京の同僚女性と結婚。結婚してすぐマンションを購入したが、子育てが忙しくなり売却。

2003年(平成15年)28歳

大人のコンソメ(2003年10月1日~2004年3月24日)で初めて総合演出。

たとえ小さい深夜番組でも、自分に裁量権があって、ハラスメントもなく、好きなことをやれる独立国家を作りました。もちろん自分でいろんなことをしなくちゃいけないので、めちゃめちゃ忙しくはあるんですけど、どうしても行きたいライブとかには自分の判断で行けるので、そこから一気に呼吸ができるようになりました。

2005年(平成17年)30歳

2月、『ゴッドタン 〜The God Tongue 神の舌〜』単発放送。好評のため、10月から12月までレギュラー番組として放送される(第1期)。

僕が30代になった頃、2005年くらいですかね、そろそろこれまでのテレビ業界のルールが通用しなくなるぞっていうムードが明確になってきました。このままのテレビ局の稼ぎ方を続けていても、もう逃げきれないぞっていう。もちろん、僕だけが気づいていたわけではなく、誰しもわかっていたことだけど、逃げきれる年齢の人達が意思決定権を持つ上層部にいたから、なかなか改革が進まなかっただけで。

その時30歳だった自分が、会社に最適化した仕事をして、世帯視聴率を絶対的な指標にした番組を作り続けていたら、10年先、20年先には無職になっちゃうかもしれない。無職とまでは言わずとも、代わりがいくらでもいるディレクターにはなっちゃうだろうなって。なので、もしテレビ業界が全盛期を過ぎたとしても、得意な分野が確立していて、個性的なキャラクターがあるディレクターになっていれば、少なくともエンタメ業界では仕事していけるだろうと思ったんです。だって、会社でどんなに偉くなったとしても、テレビ業界全体が沈んでいて、世の中的に会社のプレゼンスが下がっていたら、ちっともうれしくないじゃないですか。

2006年(平成18年)31歳

娘が誕生。

そのときは人生の中で一番仕事が忙しい時期でもあったんですよね。

子どもが生まれる直前も、9日間連続で会社に泊まっていて家に帰れていませんでした。それは仕事を詰めることでなんとか出産に立ち会いたいという思いもあったのですが、ちょうど3番組の立ち上げ時期とかぶっていて。全然家に帰れないまま、特番のロケでキングコングと大分に行っていたときに、妻から「地元の病院で破水した」と連絡が入ったときは焦りましたよ。予定日より1週間くらい早かったので。それからロケを終えて湯布院から福岡へ行き、福岡から飛行機に乗り、羽田からタクシーで妻の実家がある横浜方面に行って、なんとか生まれる瞬間には立ち会いました。

でも、それからが大変でした。仕事量が多い中で、当時はまだ現役バリバリのディレクターが「子どもがいるから」という理由で休みを取ることができない時代でしたから。仕事と子育ての両立にはかなり苦しみましたね。子育て自体は本当に喜びに満ちたものであるはずなのに。

妻が同じ会社の社員だったことが唯一救いでした。帰れないのがウソではないというのはわかってくれていたので。そしてこのままの働き方では子育ては難しいと気づいてからはもう早々に、妻のご両親と同じマンションに引っ越しをしました。

このころ、職場のハラスメント体質に嫌気が指し、改善のため会社にしばしば申し入れを行っていた。

僕が働き方の問題や、部下や後輩に対する接し方、ハラスメントの意識に注意深くなれたのは、早い段階で子育てを経験しながら働いていたからだと思うんです。子どものおかげで、それからは他者が何を思っているかを考えるクセがつきました。

仕事って、それこそ日々の中でかなり重要なウェイトを占めるものですからね。職場が辛いと、生きていくこと自体が辛くなるじゃないですか。問題点がわかっているのに放置してメンタルを削られるくらいなら、時間と労力をかけて解決したほうがいいと、僕は思います。とにかく職場で呼吸ができなくなることが、本当に嫌だったんですよ。入社した当時の精神的な追い詰められ方は、ほかの社員よりもだいぶひどくて、どうにか解決しないと生きていけないほどだった。切実な死活問題だったからこそ、そこまで行動できたっていうのはありますね。

30代はそうやって人事に働きかけたり、ハラスメントの撲滅にけっこうな労力を費やしていたこともあって、一時期は僕の担当する番組にメンタルが弱っている若手スタッフが次々と送り込まれるようになったんですよ。もはや療養所みたいになってました。佐久間のところに行けば安全だし、少しずつ回復するだろうって。

2007年(平成19年)32歳

4月、「ゴッドタン」第2期始まる(~2011年9月)。

2009年(平成21年)34歳

4月、子供向けバラエティ番組ピラメキーノ」(PIRAMEKINO)を開始。

ピラメキーノ』という子ども番組を立ち上げた時は、放送時間が夕方だったので、大人向け番組ほどの視聴率は取れないことは明白でした。でも、子ども向け番組はどうしてもやりたかった。それは当時の子ども向け番組が、あまりに子ども達を子ども扱いし過ぎているような気がしていて。それで、ちょっといじわるで、恋愛の要素もあって、悪意と笑いを組み合わせた番組を作ったら、今の子ども達にウケるという仮説を立てたんです。この仮説を実証するためには、番組の企画を通さないといけない。

企画を通すには、視聴率とは別の評価軸が必要になるので、子ども達の間で流行る「ギャグ」と「歌」を番組で作ること、そして、イベントに子ども達を大動員すること、これをKPIとして会社と握りました。結果的にすべて達成することができて、しかも、子ども達の流行を生み出したことは、テレビ東京としては初の成功体験になったので、むしろ視聴率を取ることもよりも、社内的なインパクトは大きかったんです。

2011年(平成23年)36歳

6月まで編成局企画推進部主任を兼務。

10月、「ゴッドタン」第3期(~2013年12月)。

10月、ウレロ☆未確認少女(~12月)。

2013年(平成25年)38歳

6月28日、「ゴッドタン キス我慢選手権 THE MOVIE」で映画監督デビュー。

2014年(平成26年)39歳

1月、「ゴッドタン」第4期(~2022年3月)。

10月、『できないことはやりません ~テレ東的開き直り仕事術~』(講談社発売。

2015年(平成27年)40歳

8月29日、『佐久間宣行のオールナイトニッポンRという番組名で、『オールナイトニッポンR』(ニッポン放送)の週替わりパーソナリティを担当。

2017年(平成29年)42歳

9月、「ゴッドタン」がギャラクシー賞・2017年8月度月間賞を受賞。

2019年(平成31年)44歳

3月13日、『オールナイトニッポンオールナイトニッポン0(ZERO)パーソナリティ発表会見』において、4月4日から毎週木曜 3:00 - 4:30(水曜 27:00 - 28:30)の時間帯で『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』を担当することが発表される。現役のテレビ局社員がANNの冠がついたレギュラー番組を担当するのは史上初。

10月、「あちこちオードリー」開始。

10月8日、本多劇場で『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー感謝祭2019〜sailing day〜』を開催。

2020年(令和2年)45歳

10月14日、自身のラジオ番組で翌年1月11日に東京国際フォーラムにて2度目の単独イベント『佐久間宣行のオールナイトニッポン0 リスナー大感謝祭2021〜fanfare〜』の開催を発表するが、新型コロナウィルスの感染拡大、緊急事態宣言のため中止。その後、イベント開催日と同日に有料配信イベント『佐久間宣行のオールナイトニッポン0 リスナー小感謝祭2021〜Believe〜』を開催。

2021年(令和3年)46歳

3月26日、テレビ東京社員として最後のオールナイトニッポン0に出演。先輩の伊藤隆行クリエイティブビジネスチーム部長、後輩の三宅優樹ディレクターが出演。

3月31日、テレビ東京円満退社。以後も社との契約で『ゴッドタン』『あちこちオードリー』『考えすぎちゃん』は継続しプロデューサー、演出を行う。

会社を辞めたのは、部長的なポジションになるタイミングが目前に迫っていて、管理職になってからでは会社にも部下にも迷惑をかけるので、その前に辞めようっていうことでした。

6月、ラジオ本『普通のサラリーマン、ラジオパーソナリティになる〜佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2019-2021〜』扶桑社)発売。

7月4日、YouTubeチャンネル『佐久間宣行のNOBROCK TV』開設。配信開始1週間で登録者数5万人を突破、開設1か月弱(7月29日)で登録者数10万人、1か月半(約45日)で登録者数15万人を突破。

2022年(令和4年)47歳

4月、ビジネス書『佐久間宣行のずるい仕事術 僕はこうして会社で消耗せずにやりたいことをやってきた』を発売。

6月、YouTubeサブチャンネル『NOBROCKドキュメント』を開設。

7月、サブチャンネルにて新たなアイドルをプロデュースすることを発表。吉田豪竹中夏海にアドバイスを求めながらオーディションを実施。

7月15日、「佐久間宣行のオールナイトニッポン0」が『2022年日本民間放送連盟賞』ラジオ番組部門(東京地区審査)で1位に選ばれる。

11月、ラジオ本第二弾『普通のサラリーマン、ラジオパーソナリティになる〜佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2021-2022〜』(扶桑社)発売。

12月、9人組アイドルグループ「ラフ×ラフ(Rough×Laugh)」立ち上げ。

2023年(令和5年)48歳

2月18日、ニッポン放送秋元康と佐久間宣行のオールナイトニッポン」で秋元が復活する「オールナイトフジ」のメインパーソナリティーが佐久間宣行であることを情報解禁前に暴露。

3月9日、「ラフ×ラフ(Rough×Laugh)」デビュー曲「100億点」(作詞を佐久間が担当)配信開始。同日に池袋の噴水広場でデビューイベントも行う。