INSTANT KARMA

We All Shine On

Intelligent Living Class

近代に於ける誠実な文章は「完全なる自己否定」でしかなし得ない、と僕は信じている。書き手が自己否定していない文章など、まったく読むに値しない。勝手に自分だけで読んで楽しんでくれ、という感想しか持ちえないのだ。そういう何の役にも立たない文ばかりがつらつらと掲載されているだけ、というのが文芸誌というやつだ。そういうところで呑気に文章を発表するようになったら、人間終いだ。ロクなもんじゃない。悲惨な人生まっしぐらなだけ。他には何もない、辛いだけで本当に何もないのだ。

中原昌也KKKベストセラー」

中原昌也の早い回復を祈りつつ、7年くらい前に書いた文章を貼り付ける。

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ここ最近は、中原昌也の小説を読んでいるときが一番気分が落ち着く。最新刊『軽率の曖昧な軽さ』と昨年出た短編集『知的生き方教室』を繰り返し読んでいる。

自分はこれらの作品を何よりもユーモア小説として読んでいる。しかし言葉のあらゆる意味において彼の作品は「エンタメ小説」ではない。

近年の中原昌也作品に顕著になってきた一つの特徴として、彼自身が既にネタばらししていることであるが、「PHP文庫」などの自己啓発本からの、あからさまなコピペ的表現の多用がある。

特定の形式を持つ紋切り型の文章を羅列することで、その内容の空虚さが浮き彫りになり、それまで特定の文脈で有意義とされてきた論理や思考が滑稽なまでに無意味化・無価値化されていく。

たとえば、『知的生き方教室』所収の「未来のオリンピック音頭」

冒頭から、以下のような安倍首相及びアベノミクスへの賛美がしつこい程連呼され、文字通り何度も繰り返され(コピペされ)る。同一の作品中には、ここに引用することすら憚られるような首相に対する暴力行為の描写があることを念頭に置いて読んでみてほしい。

東京オリンピック開催決定、おめでとうございます! 日本の純文学界を代表して、お祝いを表明します!」
 テレビの前で発表を、ドキドキしながら見ていた。こんな気持ち、いつ以来だろうか? 芥川賞にノミネートされたとき以来の興奮だった……きっと読者も、さぞかし、同じように胸を熱くしていたことだろう。
 発表された瞬間、それまで黒い霧に覆われていたのが、パーッと晴れて明るくなった。輝く希望の時代が、幕を開けたのだ。
 東日本大震災からの「復興」を理念に掲げ、IOC委員会に「スポーツの力」をアピールしたのが、功を奏した。アジアで最初の五輪となった1964年の大会以来、何と56年ぶりにギリシャから聖火がやってくるのだ。このことに興奮せずに、何に興奮するというのか。
 日本が掲げたのは、高度な都市機能と強固な財政基盤に支えられた、東京だけの「安心、安全、確実な五輪」。
 そう表明した安倍首相という、日本の歴代総理の中でも特に逸材というべき人物による「オール・ジャパン」が、招致機運の盛り上げに一役買った。これによって、彼は世界の歴史にも名を残すことだろう。
 私も正直なところ、「アベノミクス」の恩恵によって、どん底から這い上がるチャンスを与えられた幸運な人間であるのを、ここに告白しなければならない。
(中略)
 そんな疑心暗鬼の長い時代が続いていたのを、見事に断ち切ってくれたのが「アベノミクス」であったといえよう。
 おかげでこうして家賃も滞りなく払えるようになり、生活の基盤が整ったと同時に、いままでいい加減にしか関わってこなかった文学と、こうしてちゃんと向き合えるようになった。感謝の言葉しか思いつかない。
 安倍首相によって、もしかすると我々は3.11以前よりも絆が深まったかもしれない。
 「アベノミクス」がなかったら、オリンピックの東京での開催は決まらなかったし、いまこうして自分が原稿を書いていることもなかったに違いない。
 日本の未来は安泰だ。

中原作品のもう一つの特徴として、乱暴で投げやりとさえいってよい、全く前後の脈絡を無視した無関係な文章の羅列がある。時には文節単位でそれが行われる。

断片を敢えてブツ切りの断片のまま提示し、変に整合性を持たせる努力を意図的に放棄することで、あらゆる思考、そこから生み出される概念、論理、思想が所詮不完全な断片でしかないことが暴露される。

そんな、錯乱状態の意識をそのまま描写したような断片的な描写の中に、いきなり、「もう家賃なんて二度と取るな!そのせいで全てが最悪なんじゃないか!」といった、身も蓋もない真情の吐露が、思い出したように暴発する。

しばしば文法を無視したような奇妙な日本語は意図されたものというより、敢えて整合性を放棄したが故の自由な言葉の流れの重視から来るものだろう。体言止めと断言調の文体をリズミックに挟むことにより、奇妙なユーモア感覚を生じさせてもいる。加えて、突然脈絡なく挿入される極端な描写が作品全体にダークなブラック・ユーモア的彩りを添える。

作品全体を常にバックグラウンドに通奏低音のように流れる憂鬱な倦怠感と、自己の存在を無へと消し去りたいという絶望的な憧れ。

それは思考、観念、イメージという断片を素材として奏でられるインプロビゼーション、不協和音の連なりであり、ノイズ・ミュージックであり、本業がミュージシャン(暴力温泉芸者」「Hair Stylistics)である作家の音楽的感性がいかんなく発揮されている。

自分はノイズ・ミュージックを聴く習慣は持たないが、ノイズ・ミュージックの文学化といってよい中原昌也の小説に憑りつかれてしまったので、遠からず音楽的にも新たな扉を開けてしまうことになるかもしれないという予感がする……たとえば次の文章を読んで少しでもニヤリとできるかどうかが、中原昌也小説の読者たりうることの試金石となると言ってよいだろう。

 数年前から電池が入れっぱなしのラジオが枕元にあり、それで放送を聞いて過した。スイッチを入れると、芸能人、有名人の思わずもらしたホンネ、つぶやき、忘れ去るにはもったいない名言を紹介するという面白そうな特別番組が、何時間にもわたって放送されていた。最初の数時間は楽しんで聞いていた浩二であったが、やがて気がついた頃には眠ってしまっていた。
 次に再び目が覚めたときは、すでに別の番組に変わっていた。
『先日ご紹介したとおり、当番組で爆竹とともに獅子舞や龍舞を披露。演出的にも、NHKらしく淡々とした描写で、派手な番組に慣れた耳には退屈に聴こえるところもあります。夜になって、ロビーにある大画面テレビで、NHKの大河ドラマを見に来る人達の群れを眺めながら、芸能人、有名人の思わずもらした失言で怒られて、プロデューサーに思い切り平手打ちされました。こないだコンクールで優勝した盲目のピアニストがいますが、彼はとにかく派手で豪華な服が好きで、尊い精神よりも物欲しか感じることができない。NHKで紹介されるだけのことはあり演奏者としては優秀だが、最終的には亡くなってしまいました。彼は生前「ワールドカップの運営者やブラジル代表が葬式にそんな派手な色を着てくるなんて馬鹿か!!」と罵られ義捐金の募金箱を、自宅玄関前に設置。「集めた金で贅沢するな」と識者から怒られて募金熱が冷めました。時間という概念すらないので昔のアイドル風の洋服や無添加食品や自家農園で栽培した無農薬、無肥料で栽培した野菜など、様々なものを抽選でお詫びにプレゼントしました。番組では、こうした皆さんから届いた声を紹介しながら、永遠に理解することすらできない思考する自分の意識自体なくなるから怖くないです。生きている間に近所のスーパーで洗剤から食料品まで何でも揃う意識がなくなること、局サイドから「正月番組なので、派手すぎる衣装は遠慮して」といわれちゃった! 無意識のまま宇宙を漂うだけで永遠の無になるお葬式って知ってたらちゃんと喪服で行ったのに、弁解もさせてくれなかった。「君だけだゾ、皆怒られているのに、一人だけ……」と立腹していた。「都会も田舎も関係なく、NHKの受信料の支払いって法的にどうなっているの?」と言い返すと、「質問するにも常識ってものがある」と厳しく怒られました。自分が悪いと言う意識は無くなるし、苦痛もない素晴らしい世界に生まれるということが逆に放り出された状態、葬式に参列した明るく元気なスタッフがあなたをお待ちして「NHKのど自慢」(NHK総合)に出演する意識を発生させる神経回路が無くなります。おいしい物を作ろうとする農家、生産者との産地直結で鮮度の良い状態で供給しろと、怒られる筋合いでもないですが、完全な消滅でしかない知識のなさを喩えるのにも用いられ、母親から電話があり、「もう歳も取ってるんだから、もっと高そうで派手な服を着ろ」と怒られ、黙って聞き流しました。これはまさにNHKから抗議がきて放送禁止になった予測不可能な状態です』という内容を、女性キャスターが語った。

『軽率の曖昧な軽さ』所収「犬のしつけビデオに潜む落とし穴」より

そんな中原昌也という作家自身の持つ世界観は、以下のようなインタビューで垣間見ることが出来る。

プリミ恥部 ハッピーなものには何でしたくないんですか?(笑)。 

 

中原 したくないっていうことでもないんだけど、しっくりこないっていうか、要するに自分だけ幸せになったら、世の中が全部幸せになるかっていうとそれは違うでしょ? 

 

プリミ恥部 自分が幸せになって、世の中も幸せになったらいいじゃないですか。 

 

中原 そんな都合いいことはないでしょ!絶対(笑)。 

 

プリミ恥部 僕はそう思ってますよ(笑)。 

 

中原 それはそうでしょうよ!(笑)。白井くんはそう思ってやってるんだし、それを否定するつもりは全くないんですけど、どんな状況でも僕はやっぱりね、懐疑的になっちゃいますからね。「そんなことだけでいいのか」とかって、どっかしちゃうわけですよ。

 

(中略)

 

プリミ恥部 本気で超変えちゃうっていうのは?(笑)。 

 

中原 変え方が分からないもん。それは嘘を付くってことなの? 

 

プリミ恥部 ハッピーな方に意識を変換していくというか。 

 

中原 何かね、ハッピーってことがエクスタシーやってる状態っていう風な極端なことでしか理解出来ないの(笑)。あははははははは(笑)。 

 

プリミ恥部 書くことでハッピーと言えば、エクスタシーやってるってこと(笑)。 

 

中原 例えば、コカインやってとかね、そういうことでしかもう分かんないね(笑)。 

 

プリミ恥部 でも、それがあるってことは何かこう、脳内麻薬的な方向にいければ。 

 

中原 だからって、それがいい状態なの?って思っちゃうわけ。 

 

プリミ恥部 いいと思いますよ。 

 

中原 いや、そんなことないと思うんだよなあ。例えばさ、目の前で交通事故が起きて、人が死んでるのに、「わあ、ハッピーだ」とかね、結局、そういうことでしかないでしょ?起きてることを置いといて、ハッピーになるっていうことだって理解してるの、僕の中で。人々が言ってる幸せっていうのは。 

 

プリミ恥部 じゃあ、幸せの価値観を変えてみるっていうのはどうですか? 

 

中原 そこまでいったらもう、洗脳されてるとかそういうことじゃん!(笑)。それで何か出来るんだったらいいんだけど、そうやって思考してるんじゃないから。脳内に何か出てたとしても、それはただそう思ってるだけ。 

 

プリミ恥部 エクスタシーでハッピーになってても、ネガティブなことを書いてるっていう状態? 

 

中原 違うんじゃない?それ(笑)。別にネガティブなことを書きたいんじゃないんだよ。もっとフラットなことが書きたいの、本当に。フラットなこと。 

 

プリミ恥部 そこ、いいんじゃないですか?(笑)。 

 

中原 自分ではフラットなつもりなんだけど、フラットな状況だと書けないから、間違った方向とか悪い方向にいったりするの。で、幸せなものっていうのは文章に向いてないと思うのよ、自分の中で。文章自体に。本当に幸せなものっていうのは言語化出来ないと思ってるから。仕事は辛いもの。自我が存在するから辛いことなの。幸せな状態って自我が消えてる状態、僕の中で。自分も何もない感じなんですよ、僕の中で幸せって。だから、残念ながらそれを文字には出来ないっていう風に思ってるのね。 

 

プリミ恥部 しゃべることだったら大丈夫なんですか? 

 

中原 しゃべるだけなら出来るけど、文字にする時はそこには自分は完全にいないから。文字に変換するのは無理。無条件に「イエーイ!」みたいなものは文字にはならない。あははははははは(笑)。する必要も感じないし。」

 

(ネット上のインタビュー記事【プリミ恥部の宇宙おしゃべり】より)

「宇宙マッサージ」という施術法の使い手であり、チャネリングその他のスピリチュアルなメッセージ伝達を生業としている「プリミ恥部」氏と、2012年9月に四谷三丁目の「ガスト」で行われた、この6時間に及ぶ対話の記録からは、「自我満足スピリチュアル」的なものに対する中原の違和感が滲み出ている気がする。

スピリチュアル主義者のいう「自己実現」や「ハッピー」など、所詮脳内モルヒネの分泌から生じる生理的反応にすぎず、自己満足なトランス状態でしかないことを彼は見切っている。

「幸せは自我がない状態である故に言語化できない」と考える中原昌也が「希望」について語るとき、それは常に「悲しみ」と切り離すことはできない。

自分だけでなく他者の痛みも知り、「悲しい存在」である事実を乗り越えた者しか、新しい時代の幸福を想像できない。そして、そこからしか、もはや未来への希望は生まれてこない…現状批判としての映画が、現実の歪みを提示するに留まることや、純粋なファンタジーに浸るだけでしかなかったのだが、それがいま確実に新たな局面を迎えたのだ。(映画「ヘヴンズ ストーリー」レビューより)

彼の表現活動全体から学ぶものがあるとすれば、それは何物も恐れない率直な物言いと知的誠実さであろうと思う。

言論誌「新潮45」の最新号(2016年4月号)に、「またも東京を壊すオリンピック」というエッセイを寄せた彼は、歴史や伝統にまったく敬意を払わず、「人間のサイズではなく、ただ産業が回ってゆくために必要なことが行われている世界」の現状に絶望的な警鐘を鳴らしている。

こういう文化的視点のまっとうさが、彼の作品に、ある種の品格を与えている。きわめて健全な美的感覚に基づくバランスのとれた世界観が、彼の小説における破綻した文体や、率直に過ぎる政治的発言の根本にある。

作品中に頻出する石原慎太郎安倍晋三に対するむき出しの憎悪は、醜悪なものに対する彼の身体感覚に発する嫌悪感に由来している。その美的感覚と反応の確かさこそが彼の知的誠実さの基盤であり、作家としての信頼感にもつながっている。

読者が(自分が)こんなにも中原昌也の書くものに引き付けられてしまうのは、彼の表現の本質に横たわる真・善・美の存在を感知しているからだと思う。一見わかりにくく思えるが、実は彼の作品はあっけないほどにいつも透明なのだ。彼の愛読者にはそれがハッキリと見えている筈だ。

中原昌也を読んでいると、すべての近代日本文学の用いてきた文体、明治以来の言文一致の書き言葉のパワーがことごとく無力化されていく気がする。一時の筒井康隆のような意図的な実験性すら放棄され、手法としてはかつて藤枝静男が『空気頭』などで行っていたことに通じるように思う。言語(書き言葉)の幻想を剥ぎ取る姿勢は、執着がない(投げやりな)分だけ、かつての高橋源一郎よりも徹底している。

そこでは、何かを語ろうとする一切の努力が無意味化され、断片へと解体される。明治以来の近代日本文学が生み出してきた巨大な観念のカタマリの数々を、バラバラな断片へと砕き切ろうとするデーモニッシュな衝動(それは自我によって意図されたものではなく、無意識的で無目的なものだ)が感じられる。

我々は、中原昌也の作品を繰り返し読み込むことにより、近代日本文学という巨大な「自我」がバラバラの断片へと砕け散っていく快感を味わうことが出来る。

そして、<巨大な観念を砕き、いったんフラットな断片と化した「言葉」を再び紡いでいく>という作業は、今日において全ての人が、それぞれの分野で実践すべき創造的(破壊的)営為でもあるのかもしれない。

 人間が他人を思いやる気持ち……それは人間が人間たる所以の想像力を持つことに他ならないと思う。想像力を放棄すれば、自ずと人間は私利私欲に走る。都合よく、他人を人間だと考えずに、奪えるもの全部を奪い尽くそうとする。たった一人の人間が強欲の果てに、世界の通貨を根こそぎ手にすれば、世界から貨幣という制度が根絶され、人々の大半は、生きる苦しみの枷から解放されるかもしれないのだが。

 そもそも自分と他人の垣根ってなんだろうと、僕はいつも考える。

 自分の目に映る他者。自分の許容範囲内での、他者の思考。

 完璧に理解できないだけであって、それは自分の世界の一部であるのは間違いない。

 たまたま今現在の自分と相手の立場が違うだけで、いつ同じ問題に自分が直面しないと、いったい誰が断言できるのだろう。

 そのときのためにも、私たちは生きる上でのあらゆる困難さについて、考える準備をしていなければならないし、常に他者の気持を慮らねば、世界平和の前に立ちはだかる困難さに、立ち向かうことはできないだろう。

中原昌也の人生相談  悩んでるうちが花なのよ党宣言』あとがき より