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最後の大小説家

大江健三郎は、ずっと自分の読書範囲には入らない作家だった。彼の小説を一番身近なものとして感じたのは、息子が生まれた当時、妻が持っていた大江の『新しい人よ目覚めよ』という小説が引用していたウィリアム・ブレイクの詩集から命名のアイディアを借りたのがきっかけで読んだときだ。しかし関心はその時限りで終わっていた。

だが二年くらい前に、ふとした拍子から、大江健三郎の小説をまとめて読んでみる気になった。

大江健三郎は日本で二人しかいないノーベル文学賞受賞者の一人で、戦後民主主義を擁護する発言、『ヒロシマ・ノート』や『沖縄ノート』、反核原発運動への積極的な関与などから、「日本社会の生ける良心」のような役割を持つ作家というイメージを漠然と持っていた。そんな先入観が、彼の小説を遠ざける要因になっていた。

「社会の生ける良心」という言い方で思い出すのは、ドストエフスキー『悪霊』に出て来るリベラリスト、ステパン先生だ。ステパン先生は、フランス人文主義に影響を受けたモラリスト学者で、リベラルな社会改革を信じる理想主義者だったが、新しい世代のニヒリスト革命家たちの玩具にされた挙句に発狂して放浪の旅に出発し、傍目には不幸だが主観的には幸福な死を遂げる。そんなステパン先生は、『悪霊』という陰惨で不気味な小説の中では一条の光とでもいうべきユーモラスかつ悲劇的な人物なのだが、僕にとって大江健三郎という作家の存在、とりわけノーベル賞受賞後のそれは、そのようなステパン先生的悲喜劇性を感じさせるものであったのだ。

東大在学中、二十二歳のときに大学新聞に寄稿した『奇妙な仕事』という短編が文芸評論家・平野謙の目に留まり、文芸誌から執筆の依頼を受けるままに小説家としてスタートした大江健三郎は、『飼育』芥川賞を取った後、時代の寵児として、『芽むしり仔撃ち』、『遅れてきた青年』などをはじめとする多くの小説を精力的に発表し続け、障害を持つ赤ん坊の父となった経験に基づく『個人的な体験』を経て、大江文学のひとつの到達点としての万延元年のフットボールという作品を生み出す。

タイトルは有名だが中身についてはほとんど知らなかったこの小説を、初めて読んだとき、頭がグラグラするような衝撃を受けた。

一読しただけでは何を書いてあるのか判然としない、悪文の見本とも言われる文章が連綿と続く。それでも作品世界に引きこむ力と、いったん引きこまれたら抜け出せない磁力のようなものがある。大江は子供の頃から自分の創作した話をするのが得意で、決して流暢ではないが人々の心をとらえる話しぶりは祖母から受け継いだものだという。「読ませる物語」を書くストーリーテラーの才能は、村上春樹を読んだときにも似た資質を感じたものだ。ノーベル賞対象作となった『万延元年のフットボール』は、「読みにくいのだが読ませる」大江健三郎の才能が発揮されている傑作である。

若き天才作家・大江健三郎の人生の転機となったのが、知的障害をもって生まれた長男・光の誕生だった。光の誕生時の苦悩、そして光との共生と家族の絆は、後期大江作品の重要なテーマであり続けた。

よく知られているように、光はやがて音楽の才能を認められ、作曲家として何枚かのCDに収められた作品を発表している。ノーベル賞受賞後の大江健三郎にはいつも寄り添うように光の姿があった。

1980年代の『「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』『新しい人よ眼ざめよ』からは、私小説に虚構を混ぜる変形私小説が作品世界の定番となった。それらは一読したところ大江自らをモデルにした作家の身辺日記であり、『懐かしい年への手紙』や、義兄である映画監督・伊丹十三の自殺について書いた『取り替え子』からの連作、最後の長編小説『晩年様式集』に至るまで、一貫してそのスタイルである。

あまり指摘している人はいないが、晩年の大江が書き続けた変形私小説には、彼が尊敬していた作家・芹沢光治良の存在を感じるときがある。

若き日にフランスに留学、『巴里に死す』で注目され、主知的ヒューマニズム作家として海外で評価が高く、ノーベル賞候補作家とも噂されていた芹沢光治良は、九十歳を超えてなお、身辺雑記のようなスタイルの長編小説を精力的に書き続けた。その中に大江健三郎についての記述がある。

(以下、『人間の幸福』第十二章より引用はじめ)

(1988年の)暮れ30日、300枚のハガキを書き終ったが、何十人もの出すべき宛名が残ってしまった。・・・その人々には今年も失礼させてもらうことにきめて、ほっとした。ところが、その時、突然天の将軍が、僕に命じた。
大江健三郎氏に、『神の計画』7刷を、至急贈呈せよ。
―2年前、『神の微笑』を出したとき、いつもの通り、贈るだったが、やめました。大江君に神の書を強制的に読ませては申し訳ないと思って、ね。・・・
―署名して、すぐ郵送するのだ。
―大江君が、何か信仰でも、すすめているように誤解しては、申し訳ないし・・・・
―何をためらっているのだ。はやくせんか。
 そう、天の将軍に叱られて、僕は扉に、
大江健三郎様恵存 
   年明けて 九十三の 馬齢なり  芹沢光治良
と署名した・・・・

(大江君からの返事)
 1989年の年頭のお祝いを申しあげます。『神の計画』第7刷をありがとうございました。・・・・・・この連作は、発表なされるごとに拝読しております。私もこの10年ほど、ブレイクとダンテを手がかりに、神秘主義の領域にすこしずつ眼をむけてきました。すこしづつといいますのは、この現実世界からの、地つづきのリアリズムを保って、そして超越的なものに向かって、ゆきたいからです。
 先生のお仕事は、現実とそこを越えたものとの、自由な行き来があり、そこにもっともひきつけられます・・・・・・ 」

(引用おわり)

ここに出て来る「天の将軍」というのは、晩年の芹沢が夢うつつの状態で語り掛けられるようになった神霊のようなもので、芹沢は昔天理教の教祖伝を書いた縁から、彼の家に教祖の後継者を名乗る青年が出入りするようになって、青年を通じて「神からのお告げ」をしばしば受けるようになる。そう書くと何だかオカルトめいた話だが、事実、晩年の芹沢光治良の小説は、私小説というよりは、まるでスウェーデンボルグの霊界日記のようなものに近い。そして大江健三郎はそれらの芹沢小説の熱心な読者であったらしいことが、上に引用したエピソードから伝わってくるのである。

「この現実世界からの、地つづきのリアリズムを保って、そして超越的なものに向かって、ゆきたい」と書いた大江健三郎は、自らの郷土である「四国の森と村」を手掛かりに、そのような志向を表現してきた。

万延元年のフットボール』以降、大江作品の主要なモチーフとなるのは、故郷である四国の森と村を巡る伝承や家族の物語である。同時代ゲーム『M/Tと森のフシギの物語』では、ほぼ同じ伝承が異なった形式で語られる。彼の最高傑作のひとつとも言われる『懐かしい年への手紙』もまた、四国の森と村を巡る物語である。

大江自身は、これらの作品は明確なビジョンに基づいて書かれていると語っている。

・・・誤解をおそれずに言えば、共同の無意識の中の原点にあって、外側からみると歪んでいるけれども、全体が一挙に見渡し得るような、時間×空間のユニットを組み立てたかったわけです。僕は、小説を書くことは、同時代についてのそのようにして全世界の自分のモデルを作ること。そこで『同時代ゲーム』というタイトルは、僕には小説というタイトルにひとしいわけですね。

「小説を書くことは、同時代についての全世界の自分のモデルを作ること」と定義する大江の発言は、時代精神の表現たる「大文学(だいぶんがく)」の作者を彷彿とさせる。それは、十九世紀のバルザックトルストイのようなレベルの大家が行ってきたことだ。

このような広いパースペクティブで作品を構築できた作家は、少なくとも日本には大江健三郎以外ほとんど存在しなかったし、おそらく彼が最後であろう。だから、大江健三郎は、最後の大・小説家といえるのではないか。

全盛期はやはり『個人的体験』から『万延元年のフットボール』あたりで、それ以外の作品は時代状況を考慮に入れて読まないと分からないところがある。それは、彼の小説が常に時代状況をリアルに純文学として写し取り続けたということの裏返しでもある。

彼が表現した時代状況は、「戦後民主主義」という言葉で要約される。「戦後民主主義」という言葉がリアルな響きを持っていた時代が、彼の小説がリアルに受け止められた時代でもあった。しかし徐々に時代は変わり、彼の関心もより身近な世界(家族や郷里、そして亡くなった知人ら)に向けられるようになり、状況とのリアルでヴィヴィッドな接点を失っていったように思う。

では、大江健三郎に代わりうる、時代精神を純文学的に表現できる作家が出てきたかと言うと、出てきてはいない。村上春樹は、社会的な発言もするが、基本的にはプライベートな世界を描くことで抽象的に時代とつながりを持とうとする作家だと思うし、村上龍大江健三郎に比べれば純文学的なクオリティーに欠ける気がする(春樹と異なり彼がノーベル賞候補に挙げられることが決してないのは示唆的である)。大江健三郎は、やはり最後の大・小説家と呼ぶのがふさわしいだろう。

 

大江健三郎の作品の中で特に着目したいのは、それ以後の作品の出発点となり、彼の小説家としての転機ともなった、『個人的な体験』(1964年)である。

この小説は、頭部に異常を持つ息子の誕生を知らされた主人公が、現実を直視できず懊悩し、一時は赤ん坊を堕胎医に預けて衰弱死させようとまでするという話で、厳密な意味での私小説ではないにせよ、限りなく私小説に近いスタイルで書かれた作品だ。大江はこの小説を書くことで私生活上の危機を乗り越えたとも語っていた。

主人公は大学の英文科の教授の娘と結婚したが、結婚生活を始めた途端に酒に溺れ、大学院を中退し、研究者としての昇進の道を自ら絶ってしまう。義父である教授の世話で予備校の教師として働くが、生活に窮屈さを感じており、自由を求めてアフリカに行くことを夢想している。

妻の妊娠と出産が自分の人生をますます不自由にする檻のようなものとしか思えない主人公は、病院に呼び出され、誕生した子供の頭部に異常があることを告げられる。院長からはそれとなく手術を拒否することもできると示唆され、義母は娘に知らせる前に処置することを求め、義父に報告すると他人事のような顔をされ、これで憂さを紛らわせとでもいうようにウイスキーを渡される。

それから主人公はひたすら現実から逃避し、酒と女に耽溺、仕事も放擲し、手術を勧める医師の助言も拒絶して、堕胎医の手に赤ん坊を委ねる。そして、赤ん坊の「お通夜」だと称して、かつての知り合いが働くゲイ・バーに入る。

そこで、この作品を論じるすべての人が引用する「回心」が不意に訪れるのだ。

数秒後、突然に、かれの体の奥底で、なにかじつに堅固で巨大なものがむっくり起きあがった。バードは今胃に流しこんだばかりのウイスキーをいささかの抵抗もなしに吐いた。菊比古が素早くカウンターをぬぐい、コップの水をさしだしてくれたが、バードは茫然として宙を見つめているだけだった。おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか? とバードは考え、そして不意に愕然としたのだった。答えは、ゼロだ。

唐突なこの認識の転換から、主人公の行動はそれまでとは正反対の方向に驀進する。それまでに積み重ねてきた彼の無数の逡巡と逃避行動の全重量が一気に無化されるこのラスト付近の描写は、ほとんどドストエフスキー罪と罰』のラスコリーニコフの回心を思わせるほどだ。

頭部に奇形を持つ赤ん坊の親になるという現実から目を背け逃げ回りながら、いつも主人公は自分が逃げ回っているのだということを意識していた。だが良心の呵責を感じつつも、具体的に現実を受け入れる覚悟には至らない。彼は第三者からも欺瞞性を指摘される。ある登場人物は、主人公にこう告げる。

カフカが父親への手紙に書いている言葉ですが、子供に対して親ができることは、やってくる赤んぼうを迎えてやることだけです。きみは赤んぼうを迎えてやるかわりに、かれを、拒んでいるのですか?父親だからといって他の生命を拒否するエゴイズムが許されるかね?」

これほどはっきりと言われてもなお主人公は気づかない。というより、敢えて気づこうとしない。

そんな彼が、土壇場になって気づいたのは、赤ん坊を堕胎医の手に委ね、とうとう親となる責任から降りたと思って安堵した、その瞬間だった。

彼はそのとき、そしてそのときにのみ、明瞭に「見る」ことができたのだ。

「おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか?・・・答えは、ゼロだ。」

何かを決定的に「見た」とき、人は行動を起こさざるを得ない。

そして、この「見ること」が起こるのは、事実から逃げたり、逃げることを正当化したり、分析したり説明したりすることなしに、途方もない繊細さをもって、その事実の一撃をまともに、正面から受けるときだけだ。

自らが守ろうとしてきた自我が無(ゼロ)であることの強烈な自覚、そして、世界という現実に直面することの中にしか生というものはあり得ないという絶対的な認識。それのみが人間に変容をもたらし、真の行動へと導くのだということについての、これほど説得的な記述を小説の中に見出すことは滅多にない。

三島由紀夫は、この物語が余りにも「道徳的に正しい」結末に落ち着いてしまっているとして、小説の発表時に厳しい非難を加えたという。しかし、この小説のポイントはそこではない。この作品を類稀な傑作としているのは、一人の弱い人間が逃避を重ねた挙句に、否応なく「見ること」が起こる、その過程が書き込まれた綿密な描写のリアリティにこそあるので、結末がどうであるかは(これを書いていた作者にとってはともかく)小説にとって二次的な問題に過ぎない。

『個人的な体験』を経て、『万延元年のフットボール』から後の山脈のような小説群へと連なる大江文学は、この「答えは、ゼロだ」という強烈な認識を礎石として築き上げられたものだ、と言ってもあながち不当なことではないと思う。

 

日本は最後の大小説家であるとともに戦争無き時代精神を体現した人物を喪った。

大江健三郎(1935-2023)