INSTANT KARMA

We All Shine On

Dedicated to Shellfish by Ray

また猛烈にロクでもないことが起きて、とても生きているのが辛くなった・・・だが、負けてはいられない。自分が死んだら、ただ自分のことが嫌いな連中が無意味に喜ぶだけだからだ。自分が死ぬくらいなら、そういう連中を情け容赦なく皆殺しにしてやるよ。

 

銀座の交差点の中にいて、突然生きるのが辛くなった。とは言っても死ぬわけにはいかない。生きるのが辛くなったくらいで、嫌いな連中に負けるわけにはいかないからだ。

 

「エーガ界に捧ぐ」中原昌也

高円寺の図書館に保坂和志カンバセイション・ピース大江健三郎「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ 」土居健郎「信仰と『甘え』」を借りに行ったついでに、ロスアプソンで中原昌也のCDでも買って散財しようと思って初めて行ったら、それらしき店が見当たらず、スマホで調べたら営業時間外で、シャッターが閉まっていたと分かる。今日はそのまま戻る。

カンバセイション・ピース」を借りたのは、この中の登場人物の一人である「森中」のモデルが中原昌也だという情報を昨日ネットで得たので、「森中」について書かれている部分を読んでそれを確かめようと思ったからである。こういう読み方は確実にこの小説の「正しい読み方」ではないのだろうが、仕方がない。

小説の中の森中は、ガサツでお喋りで、(不満でもないのに)いつも不満たらたらのような態度で、人に対して突っかかるような物言いをする生意気な若者というキャラクターであった。そういう性格的な部分は中原昌也を確かに彷彿とさせるところがあったが、パソコン関係のシステムエンジニア兼営業のような仕事をしており、理屈をこねるところも多々あるが基本的には思慮の浅い単純な思考の持ち主に描かれている。

小説の中の森中のセリフに、中原昌也が実際に言いそうな言葉はひとつもない。ただし「——じゃないですかあ」「—―でしょ?」などの言い方や雰囲気は確かに似ているような気がする。

この小説は、日常の出来事をダラダラと淡々と描き続けながら、終わりのほうになるといつの間にかぶっ飛び哲学みたいな考察が前面に出てくる。それまでのリアリズムからの跳躍具合いが面白い。保坂が書こうとしているのは言ってみれば<魂のこと>で、それは所謂伝統的な<もののあはれ>よりは西洋哲学に近いと直感する。

人はつねに自分が何かを見ていることを意識して見ているのではなく、見ているほとんどの時間は「私」ないし「私が見ている」という意識をともなわずに見ているのだから、そのときに私ではない誰かが私の目を借りて見ているということもあるのかもしれない。今夜のミケはやけにこのL字の角から外の様子をうかがっているけれど、ここにかつて生きた猫たちがミケの耳やヒゲを借りているのかもしれないし、そうやってこの角に私を誘うことで、五官を持った私の体が記憶して再生するこの庭を思い出したいという思いを伯父か伯母が実行しているという可能性を否定する明確な根拠が私にはない。

これで次に阿部和重中原昌也の合作「赤ん坊が松明代りに」(「文芸」2004年夏号)と保坂の 「桜の開花は目前に迫っていた」(『新潮』2004年6月号、「小説の自由」所収)、「阿部和重対談集」を読まないといけなくなった。