INSTANT KARMA

We All Shine On

髪様ヘルプ

真面目に語ろう。それもお笑い種だ。人間どもってやつは、自分が何をほざいているかも定かではない。目はうつろ、街中を彷徨し、徘徊する、魂のぬけたクソどもだ。生きる理由などありはしない、かといって死ぬ理由もない。俺たちに残された、生に対する軽蔑を露わにする方法はただ一つ、そいつを受け入れることだ。人生などそもそもないし、捨てる価値もない。

「俺は真面目になる・・・」ジャック・リゴー

先日見た映画エリ・エリ・レマ・サバクタニの感想を書く前に、保坂和志の小説カンバセイション・ピースの登場人物・畑中のモデルが中原昌也であり、勝手にモデルにされた中原が阿部和重との合作小説「赤ん坊が松明代わりに」の中で保坂和志をモデルにした人物を登場させ、それを読んだ保坂和志が連載中のエッセイの中で返事を書いた、という先日のDOMMUNE阿部和重が話していた件が気になって、保坂和志のエッセイが収録されている「小説の自由」という本と、保坂和志が「カンバセイション・ピース」の登場人物・畑中のモデルが中原昌也であるということを阿部和重に話しているという「阿部和重対談集」の2冊を図書館で予約し、予約資料の準備ができたとのメールが来たので取りに行くと、「小説の自由」しか用意できていなかったので、それだけ借りて帰るのも何だか癪に触って、青山真治の小説集「ホテル・クロニクルズ」中原昌也の未読の短編「げにも女々しき名人芸」が収録されている「ILLUMINATIONSⅠ」(EK-Stase)という本も借りる。

「小説の自由」の中に、「桜の開花は目前に迫っていた」という文章があって、その中に、中原昌也阿部和重の実名は出さずに、二人が合作した小説「赤ん坊が松明代わりに」の中に保坂(仮名?)が「最高傑作の『カンバイセイション・ピース』を発表したあと、案の定スランプで抜け毛がよりひどくなり、やがて散文詩まがいの遺書めいたものを文芸誌で発表した後に東京近郊の森林で自殺未遂騒動を引き起こしたとの噂」が出たというような描写があったと書かれている。

それに対する保坂和志のコメントは、「あの二人の小説がおそれいるのは、唐突に使用される諺ほどにも、小説がメタ・メッセージを持っていないことだ。つまり何のつもりで書いているのかさっぱりわからない。・・・創作の動機が小説から想像することができない。不謹慎な創作態度だ」と書いていて、一見二人を批判しているようにも思えるのだが、精神の眠ったような紋切型の小説よりはマシだ、というようなことも書いていて、結局のところ好意を持っているようだ。その後には、中原昌也の小説のパロディを狙ったとすれば完全な失敗としか言えないような文章が続いている。中原昌也の小説を他の作家が書き直した「リミックス本」というのがあるが、あれも全部失敗している。中原昌也の小説を中原昌也以外の人間が書こうとしてもひとつも面白くない。そんなことは分かり切っているのになぜやるのだろう。

上に引用した「最高傑作の『カンバイセイション・ピース』を発表したあと、案の定スランプで抜け毛がよりひどくなり、やがて散文詩まがいの遺書めいたものを文芸誌で発表した後に東京近郊の森林で自殺未遂騒動を引き起こしたとの噂」という文章は、保坂和志による孫引きであり、その通りに書かれているのかどうか分からないが、それでもそこを読んだだけで笑ってしまう。言葉のチョイスのセンスが際立っている。

保坂和志は「小説の自由」という本の中で、小説にとってリアルであるとはどういうことかとか、面白い小説とはどういうものかとか、要するに小説とは何か、といったことについて数百ページにわたって考察しているのだが、自分にとってはその全部が「一行の中原昌也にも若かない」のであった。それでも保坂和志のような人を私が大切に思っているのは、彼が中原昌也のことを一種の愛情をこめて見つめ、自分の小説に登場させたりエッセイに取り上げたりしてくれたからにほかならない。高橋源一郎についても同じ。