昨日の続きで、スージー鈴木著「平成Jポップと令和歌謡」(彩流社、2021年)も読んでみた。
50代の著者が「最新ヒット曲を毎週1曲取り上げて、東スポの読者である中高年男性層に解説をしてほしい」との依頼を受けて東京スポーツ紙に連載した文章のうち、2016年から2020年までの5年分をまとめて書籍化したもの。
著者と同年代(厳密には4歳下)で、最新のヒット曲には完全に疎くなっている自分が読むにはもってこいの本である。
類書として近田春夫「考えるヒット」は余りにも有名だが、著者の「1979年の歌謡曲」と「1984年の歌謡曲」、そして「EPICソニーとその時代」はいずれも好著で、読みながら共感し、思わず膝を打つことが多かったので、近田氏よりも世代の近い著者の意見をぜひ聞いてみたいと思った。
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一読して、前掲書より膝を打つ回数は極端に減り、むしろ首を傾げる箇所のほうが多かったというのが正直なところである。勿論ここで取り上げられている曲は(全部ではないが)サブスクで聴いてみた上での感想である。
当然ながら、これはどっちの意見が正しいということではなく、単に好みの問題でしかないから、この本(著者の見解)に対して批判的な思いは一切ない。充実した読書時間を与えてもらい、ほとんど知らなかった2016~2020年のヒット曲を聴く機会を与えてもらったことに感謝の思いしかないことを記しておく。
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この本に(敢えて)書かれていないことを一つ指摘しておくならそれは、演奏技術と作曲能力は間違いなく1980年代から向上し続けている(それ以前は一部を除いて一握りの職業的演奏家と作詞作曲家の時代であった)のに反比例して「歌の中身」が空疎になっている、という疑いなき事実があるということだろう。これは単に歌詞の内容だけではなく、「その歌で何を伝えたいのか」ということだ。
著者は、あるヒット曲に対して「感情過多」「感情の水びたし」という表現を用いているが、これは近年のヒット曲全体に言えることではないか。
「エモい」もの、「泣ける」ことにインスタントに直結する表現を(作り手と聞き手の双方が)求めるのは、サブスク化がもたらした必然的な事態であるといえるが、より大きく見れば「資本主義リアリズム」の帰結である。
著者はスガシカオ「労働なんかしないで光合成だけで生きたい」という曲についての解説の中でこう述べている。
この曲を聴く前から、私が思っていたのは、閉塞した若者の思いや悩み・怒りを直接的に体現した音楽が、なぜない(少ない)のかということだ。
言ってみれば現代の日本は、70年代後半のイギリスに近いものがあると思う。しかし当時のイギリスが、ロンドンパンクの若い才能を次々と輩出したのに対して、今の日本には、時代と音楽が切り離されている印象を受けるのだ。
まったく同感である。
また「EPICソニーとその時代」の中で著者は佐野元春に対して、音楽の中に政治や社会的な問題を持ち込まなくていいっていう若者のアーティストが多くなって来ているという状況についてどう思うかと質問している。
これに対して佐野はこう答えた。
「彼らにとってロック音楽はただのエンターテイメントなんだろうと思う。でもロック音楽は表現であり文化だと思っている人もいる。僕もそうだ。」
昨年末のNHK紅白歌合戦に佐野元春は初めて出演し、桑田佳祐、野口五郎、CHAR、世良公則、大友康平らと一緒に「時代遅れのロックンロール」という曲を演奏した。
こんな歌詞だ(大意)。
平和という文字が霞んでいき、戦争の足音が聞こえるよ
目を反らさないで素直に声を上げればいいじゃないか
いつの間にか時代は変わって
どんどんシビアな状況になってる
目の前の状況をしっかり受け止めて歌おうよ
ダサくて時代遅れかもしれないけれど
自由なうちに、子どもの命を全力で大人が守りたいんだ
歌で闇を照らすこと
それが俺たちに残された唯一の誇りなんだよ