INSTANT KARMA

We All Shine On

尾形亀之助年譜(備忘録)

国会図書館デジタルコレクションで読める昔の雑誌より、戦前のボヘミアン詩人尾形亀之助(おがた かめのすけ、1900 - 1942)のエピソードを拾って、ウィキペディアの略歴に挿入。なので不正確なところは多々あるやしれず、個人的な備忘録なので適宜修正していく所存。

西村賢太は彼の詩集「雨になる朝」を「誰もいない文学館」で取り上げている。

 

1900年(明治33年)

12月12日、宮城県柴田郡大河原町に素封家の長男(第二子)として生まれる。

1911年(明治44年)11歳

元来喘息の持病があり、暮に療養のため鎌倉市の外祖母の家に単身預けられることとなり、かぞえ十七歳となる年の始めまでを該地で過ごす。この間に、短歌や詩を作り始める。

1920年大正9年)20歳

東北学院普通部を第五学年中途で退学。

石原純原阿佐緒らの歌誌「玄土」に参加して短歌を発表。

1921年(大正10年)21歳

見合い結婚し、上京して新居を構える。妻タケの叔父、木下秀一郎 のすすめで未来派美術協会第2回展(上野 青陽楼)に出品、〈競馬〉〈朝の色感〉は『中央美術』の批評に取り上げられる。

1922年(大正11年)22歳

会員となり同第三回展「三科インデペンデント展」〈コンダクター〉など7点。 同年、仙台の個展で発表したとされる〈化粧〉が、現存するただ1点。

1923年(大正12年)23歳

春、新宿区上落合に転居。

村山知義らとダダ運動グループMAVO(マヴォを結成、マヴォ第1回展(浅草 伝法院)に作品50点出品。

「俺」作品展覧会を音羽護国寺前喫茶店鈴蘭で開催。

「図案と工芸」 (10月號、現代の図案工芸社)に掲載されたショール図

1924年大正13年)24歳

3月10日~4月8日 銀座尾張町井上食料店で個展開催

MAVOがアナーキーな芸術家の拠点になるに従い彼らから離れ、絵筆を捨て詩作に専念する。

1925年(大正14年)25歳

4月、長女泉生まれる。

11月、大西登、神原泰、清水孝祐、泉浩耶、岡田光一郎らと「抒情詩歌」創刊。

第1詩集『色ガラスの街』刊行。12月10日に出版記念会が牛込川鉄で開かれる。

このとき草野心平から宮沢賢治の作品を紹介され、翌年1月に創刊する『月曜』に原稿を依頼する。

1926年(大正15年)26歳

1月、亀之助が主催する詩誌『月曜』創刊。宮沢賢治が童話『オツベルと象』を創刊号に発表、その後も『ざしき童子のはなし』『猫の事務所』を寄稿。

「月曜」この雑誌は惜しむべし6号で昇天した。・・・廃刊の責任を親父に転嫁して―金を送ってこないからというのだ―結局酒手の減ったことを和製リリオム、尾形亀之助君が嘆いている。(「現代の芸術と批評叢書」より)

三越」2月号に作品「白い手」を発表。

白い手

うとうと と

眠りに落ちさうな昼――

私のネクタイピンを

そっと ぬこうとするのは

どなたの手です

どうしたのか

すっかり疲れてしまって

首があがらないほどです

ね、レモンの汁を

少し部屋にはじいて下さい

12月、長男猟が生まれる。

1927年(昭和2年)27歳

「民謡詩人」に数か月にわたり詩作を発表。

十島稔の「紅い羅針盤」(ミスマル社)という詩集に「地下室にて―尾形亀之助氏に話したい」という詩が掲載される。

トンネルが飴のやうに曲った 汽車が脊髄を折って暗いトンネルで故障しました

ふとみると硝子の破片のように毀れて、2195と2000との機関車の番号が死んでゐたのです ・・・たしか彼等も目茶目茶に恋しあってゐたんですネ

「あおきつね 2の巻」(郷土趣味会)に「青狐の夢」を発表。

「新使命」(新使命社)2月号に「又、一月の誓」を発表。

兎に角私は今年酒をやめやう。でも絶対にといふことは出来ないからないしょで飲むてい度にしやう。・・・

4月中旬から2週間、信州上諏訪へ旅行。吉行エイスケの妻あぐりに熱を上げ失恋しての傷心旅行とされる。

世田谷区太子堂に転居。

西條八十北原白秋、竹下夢二、里見弴、佐藤春夫ら四十名以上の美術家と文人が名を連ねる「ラリルレロ玩具会」に加わり、三越呉服店で第一回作品展開催。

おもちゃは智恵の泉であり感情の花であるから日本の子供にいい玩具を与えたいとの結成主旨。

12月。世田谷区山崎に転居。

大鹿卓、佐藤八郎らと「全詩人聯合」結成、同誌の編輯人となるが一号で休刊。

1928年(昭和3年)28歳

「民謡詩人」に数か月にわたり詩作を発表。

同誌2月号に「素晴らしき哉人生」という短文を発表。

詩壇などという所はつまらないところである。名声というようなもののみが咲き乱れている花園であって、名声を得たい人のいる場所である。詩を型で抜いていればよいのである。名声を得た後は、詩人としての生命を全くなくしている人達でにぎやっているのである。私は仕事場が欲しい。そして死ぬまで詩をやってゆく人達で集りたい。・・・

5月、タケと離婚。二児は亀之助が引き取り、猟は仙台の生家へ預け、5歳の泉と二人で流浪の生活を送る。

タケとの離婚についてはのちにタケが再婚する大鹿卓の小説「潜水夫」にモデル小説として描かれている。

12月、詩人の芳本優と同棲のち結婚。

芳本優はその年に「酒場の扉」という詩集を出し、その出版記念会で出会った。

そのあたりの経緯は小熊秀雄の「託児所を作れ」という叙事詩に述べられている。

1929年(昭和4年)29歳

5月、第二詩集「雨になる朝」刊行(麻布区六本木、誠志堂書店、限定700部、一圓)。

6月8日、有楽町「モン・パリ」で出版記念会。

著者の詩については既に定評のあるところ敢えて禿筆を呵する必要もなかろう。如何にも瀟洒な装丁が詩集としてふさわしい(「愛誦」9月号より)

「学校詩集」に「秋冷」「五月」「三月の日」発表。

秋冷

 寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。 私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

1930年(昭和5年)30歳

私家版「障子のある家」刊行。

8月、家財を売り払って、妻の優と6歳年下の小森盛の三人で諏訪へ向かう。優によれば「死ぬことが目的でした」という。心配した草野心平が訪問し、フランス行を勧める高村光太郎の助言を伝えたが、「お互いによそうや、ひとのことに関与するのは」と提案を拒む。

諏訪に2か月ほど逗留し、東京に戻る。その帰途、前橋に住む草野心平を訪ねる。

1930年(昭和6年)31歳

小森盛の斡旋で谷中八重垣町の貸馬車屋の二階にしばらく棲み、1月根津権現裏、8月千駄木団子坂下に転居。

「愛誦」6月号に以下の批評が載る。

宮城県が生んだ最も特異な詩人は尾形亀之助である。彼は酒なくては生きていけない男でもある。明治33年12月仙台に生まれて大正14年「色ガラスの街」を昭和4年「雨になる朝」を昭和5年「障子のある家」を出版して以来芳本優子と現在まで詩壇には行方不明の形である。彼の詩には誰人のまねのできない詩魂がある。一寸北国人という感じのしないような詩を書く人である。

1932年(昭和7年)32歳

3月、仙台に帰郷。

4月末、二男茜彦(あかひこ)誕生。

「南有集 : 詞華選」(月原橙一郎編、東北書院)に「詩人の骨」掲載。

「苦悶する青年」(村木亜夫著)にて以下のように評される。

いつも陰鬱なボヘミアン。酒の匂いをプンプンさせながら、このエピキュリアンは酔っぱらって街を歩く。

氏の肉体はアラン酒の匂いがする。色硝子の街を歩く氏は、アラン酒の匂いがする。

筆者が今から7,8年前に、「淡彩の憂鬱」という詩のパンフレットを出したことがありました。するとある日、糞味噌にそれをけなしつけた女名前の手紙が手許に舞い込みました。面倒くさがり屋の筆者はそのままにして放っておきましたが、そのうちその手紙の差出主は断髪の美しい人だというレポが物好きなある友人から入りました。

つい忘れるともなくその人のことを忘れてしまいましたが、その人が尾形氏の新しい令夫人になって、尾形氏の出版記念会の時突然前に現れたのには、さすがの筆者もいささか驚いてしまいました。

「人の噂」(月旦社)3月号に以下のように書かれる。

詩壇随一の奇人にして、酒豪として有名だった尾形亀之助は、元気旺盛なりし時、一か月酒屋の勘定のみで三百円もあった。借家の八畳に、同僚十数人と鯨飲乱舞すると、床や敷居が歪み、襖が外れて内側へ倒れるという有様だった。百円紙幣十五枚を、裸のまま皺くちゃにして、ズボンのポケットへ押し込み、銀座を飲み歩いていたら、一枚の百円紙幣、いつの間にか半分にちぎれて見つからぬといった豪勢ぶり、貧乏人の多い詩人のうちで、これは又破格なブルジョワぶりだったが、今彼は諸行無常を感じて文筆を捨て、行方をくらましてしまった。その最後の詩集「躓く石でもあれば、私はそこで転びたい。」という彼らしい題名には、辻潤が読売紙上で激賞していた。

6月、誌友の石川善助が事故死。3月末には辻潤が精神に異常をきたし二階から飛び降りる。この二つの出来事に衝撃を受ける。

10月、「新詩論 1」(アトリエ社)に「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」が掲載される。

1933年(昭和8年)33歳

8月、三男黄(こう)が生まれる。

9月21日、宮沢賢治死去。10月20日岩手日報」に追悼文「明滅」が掲載される。11月23日、花巻役場で草野心平、吉田一穂と共に追悼講演を行う。

1934年(昭和9年)34歳

12月、二女湲(けい)が生まれる。

宮沢賢治追悼」(草野心平 編)に「明滅」が掲載される。

1936年(昭和11年)36歳

2月、四男乗(じょう)が生まれる。

1938年(昭和13年)38歳

7月、仙台市役所に雇用され税務課に勤務。以後亡くなるまでそこで働く。

11月、妻優が家出。中野区上高田の草野心平宅に住む。子を連れて迎えに行くも承知せず、翌年4月まで戻らず。

1939年(昭和14年)39歳

7月、優が再び家出。

1941年(昭和16年)41歳

2月、優が三度目の家出。

「歴程詩集」(3月)に散文詩「浅冬」を発表。

尾形家の本宅の敷地と持ち家25戸を東北配電に売却。優と四人の子は借家に移るが、亀之助は一人廃屋となった居宅に留まる。

高橋新吉仙台市役所に訪ねてくる。生気のない顔で虚脱した老人のような尾形と30分ほど話しただけで別れる。

1942年(昭和17年)42歳

9月30日、居宅を東北配電に明け渡す。ひとりで近くの賄い付き下宿に移る。

「歴程」9月号に散文詩「大キナ戦(1 蠅と角笛)」を発表。生前最後の作品となる。

12月2日、手押しの寝台車で宮城県仙台市の尾形家の持家である空き家に運ばれた後、全身衰弱のため死去。戒名は自得院本源道喜居士。日頃から餓死自殺願望を口にしており、自殺であったという説もある。大河原町の繁昌院に墓がある。

1952年(昭和27年)

12月15日夜、田村街日産館にて他界十周年となる尾形亀之助追悼会が開催される。

発起人:伊藤信吉、尾崎喜八小野十三郎、大江満雄、金子光晴、菊岡久利、小森盛、草野心平サトウハチロー、庄司克三、高村光太郎高橋新吉土方定一田河水泡、戸田達雄、吉田一穂、月原橙一郎、矢橋丈吉、辻一、武井武雄、壷井繁治、山之口獏、尾形優子。