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羽生名人VS.AI(人工知能)?

昨日行われた、ニコニコ生放送ドワンゴ社主催の将棋電王戦第2局、山崎叡王VS.ポナンザの対局は、少なくともコンピューターの表示する評価値の上では、早くも1日目で苦境に陥った山崎叡王が、2日目もジリジリと不利を拡大し、いいところのないまま敗北した。

この結果は、既に第1局でまざまざと電子頭脳ポナンザの圧倒的な読みの深さと序盤、中盤、終盤の全く隙がなくエグイまでの鋭い指し手を見せつけられていたことからすると、何ら意外性はなく、終わった後のプロ棋士たちの淡々とした態度は、電王戦という企画そのものの終焉を物語るかのようであった。

まったく盛り上がりのない対局後の記者会見の前半が終わった後、記者会見の第2部として、羽生名人が次期叡王戦トーナメントに出場するという重大発表が行われた。

しかし、数年前、否1年前であれば業界内外の関係者ならびに将棋ファンを大いに沸かせたに違いないこの発表ですら、先日のグーグル出資による「アルファ碁」が世界のトップ棋士を完膚なきまでにねじ伏せたニュースの記憶が未だ鮮烈であり、将棋界においてもここ数年の電王戦により「AI>>>プロ棋士」という評価が定着した感のある現時点においては、すでに時機を失した感が強く、先日のNHKスペシャル「人工知能」の番組PRの場において羽生名人自ら近々このような発表が行われることを匂わせていたこともあって、「まさか!」や「いよいよ来たか!」といった熱気のようなものからは程遠く、記者からの質疑応答もしばらく沈黙状態が続くといった有様であった。

しかも、羽生名人が出場する叡王戦というのは、ほぼ全員の棋士(現在羽生名人と双璧をなす実力者と言われる渡辺竜王は不参加)が出場する勝ち上がりトーナメント戦であり、如何な羽生名人といえども叡王決定戦3番勝負まで勝ち上がることすら容易ではなく、途中敗退の可能性も大いにあり得るのだから、この発表をもって「羽生名人VS.コンピューター」という世紀の一戦が決定したとは到底言えないのである。

人工知能(AI)の問題―それが人間を超越し、人間の優位に立ち、人間を支配し、遂には人間をこの惑星から放逐する可能性―については、過去に何度も語ったことがある。

まず言わなければならないのは、人工知能は、知識(すでに知られたもの)のみを扱うことができるにすぎないということだ。人工知能は、人間が先にインプットした知識の範囲内でしか活動できない(いわゆるディープ・ラーニングなども、知識の扱い方が異なるだけで、対象はあくまでも既知の素材であることに変わりはない)。

そして、知識(既知のもの)の中に真の創造性はない。

知識や学識は新しいもの、はじめも終わりもないもの、永遠なるものの理解に対する障害である。完全な技術を発達させることは、創造性とは関係がない。人工知能は、レンブラントの筆致を使って、素晴らしい絵画を描くかもしれない。しかしそれは創造的な画家であることを意味しない。

人工知能は技術的には完璧といってよいくらい上手に詩を書く方法を知っているかもしれない。しかしそれは人工知能が詩人であることを意味しない。詩人であることとは、新しいものを受け入れる力があり、新しい新鮮なものに反応できるだけの感性を備えていることだ。

今日の人間の多くにとって知識や学問は一種の中毒になってしまっている。そして我々は、「知ること」によって創造的になれると考えている。

事実と知識で一杯になっている頭脳は、新しく、突然の、自発的な何かを受け取ることができるだろうか? 頭脳が既知のものでいっぱいなら、その中に未知のものに属する何かを受け取る空間が少しでもあるだろうか? 知識は常に既知のものに属している。そして既知のもので、我々は未知のもの、測ることのできない何かを理解しようとしているのである。

例えば、宗教的な人々は―さしあたりその言葉が何を意味しようとも―神とは何かを想像しようとしたり、神とは何かを思いめぐらそうとしたりする。彼らは無数の本を読んできた。さまざまな聖者、グル、覚者などなどの経験のことを読んで知ってきた。そして他人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりする。つまり、彼らは既知のもので、未知のものに接近しようとしている。それは可能だろうか?

人は自分が知っているものについて考えることができるだけだ。しかし、現代の世界では完全な倒錯が起こっている。我々は、我々がもっと本を、もっと知識を、もっと事実を、もっとインターネットに溢れかえる情報を持つなら、理解するだろうと考えているのだ。

既知のものの投影ではない何かに気付いているためには、理解を通じて、既知のものを除去しなければならない。なぜ頭脳は常に既知のものに執着するのだろうか? それは頭脳が確かさ、安全を絶えず求めているからではないだろうか? 頭脳の性質そのものが既知のものの中に、時間の中に粘着しているのだ。その基盤そのものが過去と時間に基づいているそのような頭脳が、どうやって始めも終わりもないものを経験できるだろうか? それは未知のものを想像し、公式化し、思い描くかもしれない。しかしそんなことはすべて愚かなことだ。

未知のものは既知のものが理解され、解消され、消去されるときにのみ、生じることができる。それはきわめて難しい。なぜなら何かの経験をするやいなや、頭脳はそれを既知のものの言葉に翻訳し、それを過去のものに変形させてしまうからだ。あらゆる経験が直ちに既知のものに翻訳され、名前を与えられ、表に作られ、記録されている。そして既知のものの動きは知識であり、明らかにそのような知識、学識は障害物でしかない。

あなたが宗教的、心理的な本を読んだことがなく、そして生の意味、意義を見出さなければならないとしよう。あなたはどんなにふうにそれに着手するだろうか? どんな師も、どんな宗教的な組織も、どんな仏陀も、どんなキリストもなく、最初から始めなければならないとしてみよう。どんなふうにそれに着手するだろうか?

まず第一に、自分の思考の過程を理解しなければならない。そして自分自身を、自分の思考を未来に投影してはいけないし、自分を満足させる神をつくりだしてはいけない。それはあまりに幼稚なことだ。だからまず第一に、自分の思考の過程を理解しなければならない。それが、何であれ新しいものを見出す唯一の道ではないだろうか?

我々が知識、学識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識―車を運転する方法、機械を動かす方法―あるいはそのような知識がもたらす効率性は含めていない。ここで言うのは全く違ったことだ。知識や学識のどんな総計ももたらすことのない、あの創造的な幸福の感覚のことなのだ。

言葉の最も真の意味で創造的であることは、瞬時瞬時過去のものから自由であることだ。なぜなら、絶えず現在を暗くしているのは過去のものだから。単に情報、他の人々の経験、どんなに偉大でも、誰かが言ってきたことに執着し、自分の行為をそれに接近させようとすること―そのすべてが知識ではないだろうか? しかし何であれ新しいものを見出すためには、独力で始めなければならない。特に知識は落として、完全に裸で旅に出なければならないのだ。なぜなら知識や信念を通じて経験を持つことは非常に容易なことだからである。しかし、これらの経験は単なる自己投影の産物に過ぎず、したがってまったく実在せず、偽りなのだ。新しいものを自分で見出すつもりなら、古いものの重荷、特に知識、それがどんなに偉大な知識であろうが、他の人の知識をもってきても無駄である。

あなたは知識を自己防衛、安全の手段として使う。そして自分が仏陀やキリストやX(特定の人物)と同じ経験を持つことがまったく確かであって欲しいのだ。しかし、知識によって絶えず自分自身を守っている人間は明らかに真実を求めている人間ではない。

真実の発見のためのどんな道も存在しない。海図に載っていない海に入らなければならない―それは決して意気消沈させるものではない。冒険的なものでもない。何か新しいものを見出したいとき、何であれ経験しているとき、頭脳は非常に静かでなければならないのではないだろうか? 頭脳が事実、知識で混雑しており、一杯に詰め込まれた状態であれば、それらは新しいものに対する障害として働く。

我々の多くにとっての困難は、頭脳が非常に重要に、あまりにも卓越して重要になってしまったので、それが新しいかもしれない何にであれ、既知のものと同時に存在するかもしれない何にであれ、絶えず干渉するということである。そういうわけで、知識と学識は探求したい人にとって、始めも終わりもないものを理解したい人にとって、障害物でしかないのだ。