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アニー・ベサント年譜(簡易暫定版)第一部

1847年 0歳

10.1 ロンドンで出生。父はウィリアム・バートン・パース・ウッド(1816 - 1852)、母はエミリー・ロッシュ・モリス(1874没)。父はイギリス人で、ダブリンのトリニティ・カレッジに通い、医学の学位を取得した。母はアイルランドのカトリック教徒だった。父方の祖父ロバート・ライト・ウッドは、初代準男爵サー・マシュー・ウッドの兄弟だった。

ウッドの父親は彼女が幼い頃に亡くなり、息子ヘンリー・トルーマン・ウッドと一人娘アニーを残した。母親はハロー校で下宿屋を経営することでヘンリーの教育を支えた。アニーは16歳まで、チャーマスで学校を経営していた作家フレデリック・マリアットの妹エレン・マリアットに養育された。彼女は自信を持ち、社会に対する義務感を自覚し、トラクタリアンの影響を受けながら、ハローの母親のもとに戻った。若い頃、彼女はヨーロッパを旅行することもできた。

1867年 20歳

12月、福音主義的で真面目な英国国教会信者ウォルター・ベサントの弟である聖職者フランク・ベサント(1840 - 1917)と結婚。

フランク・ベサント牧師はケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジを卒業し、1866年に司祭に叙任されたが、収入がなかった。1866年にはストックウェル・グラマー・スクールで副校長として教鞭を執り、1867年にはチェルトナム・カレッジに助教として赴任した。

1871年 24歳

娘のメイベルが重病になった後、自身の信仰に疑問を抱き始める。オックスフォード大学の神学教授エドワード・ブーヴェリー・ピューゼイに相談するも、非正統的な神学的傾向を厳しく叱責される。

秋、母親とともにロンドンのセント・ジョージズ・ホールで異端の聖職者チャールズ・ヴォイジーが行った礼拝に出席し、ヴォイジーの勧めでセオドア・パーカーやフランシス・ニューマンなどの「有神論的」な著者の本を読む。ヴォイジーはまた、ベサントを自由思想家で出版者のトーマス・スコットに紹介した。

1872年 25歳

夫がリンカンシャー州シブシーの教区牧師となる。この聖職禄は、大法官ハザリー卿(ウッド家とつながりのある、初代準男爵サー・マシュー・ウッドの息子)の任命によるものだった。

ベサント一家は2人の子供、アーサーとメイベルとともにシブシーに引っ越したが、夫婦関係はすでに危機に瀕していた。ベサントは自伝の中で「私たちは相性の悪い夫婦だった」と書いている。

お金が足りず、フランク・ベサントはけちだった。アニー・ベサントは、3人目の子供ができたら家計に大きな負担がかかると確信していた。彼女は短編小説や児童書、記事を書いて生計を立てていたが、稼いだお金は夫が管理していた。

トーマス・スコットに励まされて、「聖職者の妻」による匿名の小冊子『ナザレのイエスの神性について』を執筆し、出版。

1873年 26歳

ベサント夫妻は結婚生活を修復しようと懸命に努力したが、フランク・ベサントが教会での自身の評判と地位を恐れて要求した聖餐式へのアニー・ベサントが出席を拒否したことで緊張が頂点に達し、アニーは娘のメイベルを連れて家を出る。

10.25 夫婦の合意により娘の親権を得る。

1874年 27歳

8.2 無神論者チャールズ・ブラッドローの演説を聞き、彼が運営する国民世俗協会(NSS)の機関誌である『ナショナル・リフォーマー』に寄稿し始める。また、トーマス・スコットの小規模出版社にも寄稿を続けた。

ブラッドローを通じて、農場労働者の指導者であるジョセフ・アーチ と出会い、彼の支持者となる。

8.2 「女性の政治的地位」というテーマでコヴェント・ガーデンのロング・エーカー、キャッスル・ストリートの協同組合ホールで初めて講演。

9月、カムデン・タウンの教会で「道徳の真の基盤」について講演。

思想の自由、女性の権利、世俗主義、避妊、フェビアン社会主義、労働者の権利などの問題について語る多作な作家であり、力強い演説家として認められていく。

マーガレット・コールは彼女を「当時最高の女性演説家であり組織者」と呼んだ。

また、何世紀にもわたってキリスト教思想の指導者たちが女性を必要悪とみなし、教会の最も偉大な聖人たちは女性を最も軽蔑していた人々であったと主張し、激しいキリスト教批判を行った。

「私は永遠の拷問、身代わりの贖罪、聖書の無謬性といった教えに反対し、私は自分の頭脳と舌の力を尽くし、キリスト教会の歴史、迫害、宗教戦争、残虐行為、抑圧を容赦なく暴露した。」

1877年 30歳

ブラッドローと共に「自由思想出版会社」を設立。

アメリカの産児制限運動家チャールズ・ノールトンの著書『哲学の果実』を出版し、広く知られるようになった。この本は、労働者階級の家族は、何人の子供が欲しいかを自分で決められるようになるまで決して幸せになれないと主張し、家族の規模を制限する方法も提案していた。ノールトンの本は非常に物議を醸し、教会から激しく反対された。

二人はノールトンの本を出版した罪で逮捕され、裁判にかけられた。有罪判決を受けたが、控訴審の間は釈放された。この裁判は世間の注目を集め、最終的には技術的な法的論点に基づいて判決が覆された。

ベサントはその後、ブラッドローが以前考案した名前を復活させ、マルサス連盟の設立に尽力した。この連盟は避妊の推進に対する罰則の廃止を提唱するようになった。

1878年 31歳

生存競争への解毒剤として人口抑制を提唱した小冊子『人口の法則』を出版。多くの読者を得る。

避妊に関する公のキャンペーンのため、フランクから親権不適格の裁判を起こされ、フランクが二人の子供の親権を得る。

後年彼の息子アーサー・ディグビー・ベサント(1869~1960)は、1924年から1926年まで保険数理士協会の会長を務め、『ベサント家系図』(1930)を執筆した。

当時ロンドンにいたベサントは、娘、母親(翌年死去)、そして自分自身を針仕事で養おうとする。

1879年 32歳

国民世俗協会のエドワード・エイヴリングがベサントの家庭教師となり、ロンドン大学の学位課程に進学。

1881年 33歳

3.6 レスター世俗協会の開館式で講演。イングランド国教会を攻撃。

ベサントと共に国民世俗協会の主要メンバーであったチャールズ・ブラッドローが国会議員に選出される。無神論者であったため、忠誠の誓いを立てる代わりに宣誓することを許可してほしいと求め、補欠選挙と法廷審理が繰り返され、ブラッドローに有利な形でこの問題が完全に解決するまで6年以上かかった。

1882年 34歳

バークベック文学科学研究所物理科学を卒業。ベサントの活動家としての評判を恥じた研究所は、卒業生名簿からベサントの名前を削除し、証明書を郵送した。

1883年 35歳

自身の定期刊行物『アワー・コーナー』を創刊。文芸誌だったが、やがて社会主義月刊誌となり、ジョージ・バーナード・ショーの小説『不合理な結び目』を連載形式で掲載した。

1884年 36歳

エドワード・エイヴリングが5年間の綿密な研究を経て社会主義者になったと発表。ベサントもエイヴリングの政治思想はブラッドローと自身の思想と一致していたと主張。エイヴリングとエレノア・マルクスは、マルクス主義の信奉者である社会民主連盟に加入し、その後、芸術家ウィリアム・モリスを中心に結成された小規模なマルクス主義分派である社会主義連盟に加入した。

一方、ベサントはアイルランド自治運動家たちと緊密な関係を築き、アイルランド民族主義者たちが自由党や急進党と同盟を結んだ重要な時期に、新聞コラムで彼らを支持した。ベサントはアイルランド自治運動の指導者たちと会談した。特に、地主に対する直接的な闘争である土地戦争を通じてアイルランドの農民を動員しようとしたマイケル・ダヴィットと知り合った。彼女はその後数十年にわたり、ダヴィットと彼の土地同盟を支持する発言や記事を何度も繰り返した。

1885年 37歳

1.1 ジョセフ・ハイアム・レヴィが個人主義的見解を推進するために設立したロンドン弁証法協会の1885年元旦の会合で、政治的見解を公に転換。ジョージ・バーナード・ショーが社会主義について講演し、ベサントは予想された批判の代わりに、ショーの対立候補に反対した。ショーはその後、ベサントがフェビアン協会に加入するよう推薦した。

1886年 38歳

フェビアン協会は政治目標を定め、無政府主義を否定し、ベサントとショーの両方が政治候補者の育成を推進する評議会に所属するフェビアン議会連盟を結成。

1887年 39歳

失業が深刻な社会問題化し、ロンドンの失業者の一部がトラファルガー広場で抗議活動を開始。ベサントは11月13日の集会で演説者として出席。警察は集会を阻止しようとし、乱闘が勃発し、軍隊が呼ばれた。多くの人が負傷し、1人が死亡、数百人が逮捕された。ベサントは自ら逮捕されることを申し出たが、警察はそれを無視した。この事件は血の日曜日事件として知られるようになった。

ベサントは投獄された労働者への法的援助と家族への支援の組織化に身を投じた。

その後、表現の自由を守る法律と自由の同盟がベサントらによって結成され、ベサントはその機関誌である『ザ・リンク』の編集者となった。

1888年 40歳

ロンドンのマッチ工場労働者ストライキに関わる。工場労働者と接触した若い社会主義者ハーバート・バロウズによって「新組合主義」の闘争に深く関与。労働者たちは主に若い女性で、賃金は非常に低く、マッチ製造に使用される化学物質によって引き起こされるリン中毒顎症などの職業病に苦しんでいた。

ウィリアム・モリスがベサントをマルクス主義に転向させる上で一定の役割を果たし、ハインドマンの社会民主連盟に加わる。彼女は数年間その会員であり続け、主要な演説家の一人となった。当時、彼女は依然としてフェビアン協会の会員でもあった。

ロンドン教育委員会に選出される。当時、女性は議会政治に参加することはできなかったが、ロンドンの地方選挙区を赤いリボンを髪につけて車で各地を回り、集会で演説を行った。「もう飢えた子供はいらない」と彼女のマニフェストは宣言した。彼女は社会主義の原則とフェミニズムを融合させた。

「選挙人の方々には私に投票していただき、選挙人以外の方々には私のために働いていただきたい。なぜなら、理事会には女性が必要とされているのに、女性候補者が少なすぎるからです。」

1880年代初頭から、ベサントはアリス・ヴィッカリー、エレン・ダナ・モンキュア、ミリセント・フォーセットらとともに、ロンドンで重要なフェミニスト指導者でもあった。このグループはサウス・プレイス倫理協会に所属し、全国的な地位を築いていた。

彼女はラッセル・スクエアにあるリチャードとエメリン・パンクハーストの家によく出入りしており、エメリンはマッチガール組織に参加していた。

ベサントはタワー・ハムレッツの選挙で1万5000票以上を獲得し、トップに立った。彼女はナショナル・リフォーマー紙に次のように書いている。

「10年前、残酷な法律の下、キリスト教の偏見によって私は幼い子供を奪われました。今、ロンドンの763,680人の子供たちの世話の一部が私の手に委ねられています。」

年末、財政的な制約により、アワー・コーナーとザ・リンクの両方を閉鎖。

1889年 41歳

ロンドン港湾ストライキに関わる。日雇い労働者である港湾労働者たちは、ベン・ティレットに率いられ、「港湾労働者の皮なめし機」を求めて闘争。ベサントはティレットが組合の規則を作成するのを手伝い、組織を築き上げるための会議や運動で重要な役割を果たした。彼女は公開集会や街角で港湾労働者を代表して発言した。マッチ売りの少女たちと同様に、港湾労働者たちは闘争に対する世論の支持を獲得し、ストライキは勝利に終わった。

マッチ工場の組合ストライキ

この年、ベサントはPall Mall Gazette にH.P.ブラヴァツキーの著書『シークレット・ドクトリン』の書評を書くよう依頼された。それを読んだ後、彼女は著者との面会を求め、パリでブラヴァツキーと会った。

(アニー・ベサント自伝より)

こうして1889年が到来した。私にとって決して忘れられない年であり、この年に私は「故郷」への道を見つけ、H・P・ブラヴァツキーと出会い、彼女の弟子となるというかけがえのない幸運に恵まれた。

社会の病弊を治すには、自分の持っているもの以上の何かが必要だという思いが、ますます強くなっていった。社会主義の立場は経済面では十分だったが、人類の友愛の実現へと導くインスピレーションや動機はどこから得られるのだろうか?無私無欲な労働者集団を組織しようとする私たちの努力は失敗に終わった。

確かに多くのことが成し遂げられたが、人々が愛のためだけに働き、ただ与えることだけを求め、奪うことを求めない、真の自己犠牲的な献身の運動は存在しなかった。より高尚な社会秩序のための材料はどこにあるのか、人類の神殿を建てるための切り石はどこにあるのか?そのような運動を探し求めても見つからず、私は大きな絶望に苛まれた。

それだけではなく、1886年以来、私の哲学では不十分であり、人生と精神は私が夢見ていたものとは異なり、それ以上のものであるという確信が徐々に芽生えてきていた。心理学は急速に進歩し、催眠実験は人間の意識における予期せぬ複雑さ、多重人格の奇妙な謎、そして何よりも驚くべきことに、思考を生み出すはずの脳が昏睡状態に陥ったときに精神活動が鮮烈な強度を示すことを明らかにしていた。次々と事実が私に押し寄せ、私には説明できない説明を要求した。

私は意識のより曖昧な側面、夢、幻覚、錯覚、狂気を研究した。暗闇に一条の光が差し込んだ――APシネットの『オカルト・ワールド』。その素晴らしく示唆に富む書簡は、超自然的なものではなく、私が想像するよりもはるかに広い法則の下にある自然を説いていた。私は研究に心霊主義を加え、個人的に実験を重ねた結果、現象自体は疑いようのないものだが、心霊主義的な説明は信じがたいものだと感じた。透視、透聴、読心といった現象は、確かに存在すると分かった。

すでに概略を記した外的な生活の慌ただしさの中で、これらの疑問が私の心の中で働き、その答えを熱心に探し求めていた。私は様々な本を読んだが、満足できるものはほとんど見つからなかった。それらの本に書かれている様々な方法で実験を試み、(私にとっては)奇妙な結果を得た。最終的に、何か隠された何か、隠された力があると確信し、見つけるまで探し続けることを決意した。そして1889年の早春には、どんな危険を冒してでも探し求めるものを見つけ出すという強い決意を固めていた。

ついに、日が沈んだ後にいつものように一人で深く考え込んでいると、人生と精神の謎を解き明かしたいという強烈だがほとんど絶望的な切望に満たされ、後に私にとって地上で最も神聖な音となる声が聞こえてきた。その声は、光は近いから勇気を出しなさいと私に告げていた。

2週間が過ぎ、ステッド氏は2冊の大きな本を私の手に渡した。「これらを読んでみてくれないか?私の部下たちは皆、これらの本を読むのをためらうが、君はこれらのテーマに十分熱心だから、何か成果を上げられるだろう。」私はその本を受け取った。それはH・P・ブラヴァツキー著の『シークレット・ドクトリン』の2巻だった。

私はその重荷を背負って家に帰り、腰を下ろして読み始めた。ページをめくるにつれ、興味はどんどん深まっていった。しかし、それはまるで馴染み深いもののように感じられた。私の心は、結論を予見するように、まるで自然に、首尾一貫して、繊細でありながら、理解しやすいものだった。

私は、ばらばらだった事実が壮大な全体の一部として捉えられる光に目を奪われ、眩惑された。そして、私の抱えていたあらゆる謎や疑問、問題は、まるで消え去ったかのようだった。ある意味では、その効果は部分的に錯覚だった。なぜなら、それらはすべて後になってゆっくりと解き明かされ、素早い直感が真実として捉えたものを、脳が徐々に同化していく必要があったからだ。しかし、光は確かに見えた。そして、その閃光の中で、私は疲れた探求が終わり、真実そのものが見つかったことを悟った。

私は書評を書き、ステッド氏に著者を紹介してもらい、それから訪問の許可を求める手紙を送った。すると、大変丁寧な手紙が届き、訪問を歓迎された。

そして、穏やかな春の夕暮れ時、ハーバート・バロウズと私は(この件に関して彼の志は私と同じだった)、ネッティング・ヒル駅からランズダウン・ロード17番地の玄関まで歩いて行った。そこで何に会うのか、想像を巡らせながら。

一瞬の間があり、廊下と外の部屋を素早く通り抜け、折り戸が開け放たれ、テーブルの前の大きな椅子に座る人影が見えた。力強く、人を惹きつける声が聞こえた。

「ベサント夫人、ずっとお会いしたかったのです」。

私は彼女のしっかりとした手に握られ、生まれて初めて「HPB」の目をまっすぐに見つめた。突然、心臓が飛び出しそうになったのを感じた――それはある種の啓示だったのだろうか?――そして、恥ずかしながら、まるで支配者の手を感じた野生動物のように、激しい抵抗に襲われた。

私は、何の考えも伝わってこない自己紹介の後、席に着き、耳を傾けた。彼女は旅のこと、様々な国のことを、軽妙で明るい話し方で語り、目はベールに包まれ、美しく整った指で絶えずタバコを巻いていた。

特筆すべきことは何もなかった。オカルトの話も、神秘的な話も何もなかった。世間を知り尽くした女性が、夕方の訪問客と談笑しているだけだった。

私たちは立ち上がって帰ろうとした。すると一瞬、ベールが晴れ、二つの輝く鋭い目が私の目と合い、切ない思いを込めた声が響いた。

「ああ、ベサント夫人、どうか私たちのところへ来てください!」

その切ない声と、人を惹きつける瞳に駆り立てられ、私は思わず身をかがめて彼女にキスしたい衝動に駆られた。しかし、昔の頑固なプライドが閃き、自分の愚かさを心の中で嘲りながら、私はありきたりな丁寧な別れの挨拶をし、何やら無意味なほど丁寧で、はぐらかすような言葉を残して立ち去った。

「お嬢さん」と彼女はずっと後になって私に言った。「あなたのプライドはひどいものね。あなたはルシファー自身と同じくらい傲慢だわ。」

しかし、最初の夜以降、私は二度と彼女にその面を見せなかったと思う。もっとも、その面は彼女を擁護するために何度も何度も怒りを込めて現れたのだが、やがて私はあらゆる批判の取るに足らなさと無価値さを悟り、盲人は軽蔑の対象ではなく、同情の対象であると理解するに至った。

私は再び神智学協会を訪れ、入会を希望しつつも、同時にそれに抵抗していた。なぜなら、入会が何を意味するのかを、はっきりと、そして痛ましいほどはっきりと理解していたからだ。

ロンドン教育委員会での活動によって、世間の偏見はほぼ克服し、より平坦な道が目の前に広がっていた。そこでは、人助けの努力は非難されるのではなく、称賛されるべきものだった。

私は新たな争いの渦に身を投じ、憎悪よりもひどい嘲笑の的となり、不人気な真実のために再び疲弊した戦いを繰り広げなければならないのだろうか? 唯物論に背を向け、知性に惑わされて魂を無視した自分の過ちを公に告白する恥辱に耐えなければならないのだろうか? 私のために勇敢に戦ってくれた仲間たち、社会的な排斥というあらゆる残酷さの中でも私を大切にし、忠実であり続けてくれた友人たちを捨てなければならないのだろうか? そして、私が社会主義によって信頼を揺るがした、誰よりも強く、最も真実の友である彼が、自分が誇りに思い、寛大であった同僚、戦友が敵側に寝返り、唯物論の陣営を去るのを見る苦痛に耐えなければならないのだろうか。

私が神智学協会の信者になったと告げたとき、チャールズ・ブラッドローの目はどんな表情を浮かべるだろうか。闘争は激しく、熾烈だったが、昔の苦悩はなかった。兵士は多くの戦いを経験し、多くの傷によって鍛えられていたからだ。

こうして私は再びランズダウン・ロードに行き、神智学協会について尋ねた。H・P・ブラヴァツキーは一瞬、私を鋭く見つめた。

「心霊研究協会の私の報告書を読みましたか?」

「いいえ、私の知る限りでは聞いたことがありません。」

「読んでみなさい。そして、読んだ後に戻ってくるなら、まあ、いいでしょう。」

彼女はその件についてはそれ以上何も語らず、話は様々な国での自身の経験へと移っていった。

私は報告書のコピーを借りて、何度も読み返した。するとすぐに、その堂々たる構造がいかに脆弱な土台の上に築かれているかが分かった。結論の根拠となる前提の連続、告発内容の信じがたい性質、そして何よりも決定的な事実として、証拠の出所がいかに不純であったか。

すべてはクーロン夫妻の誠実さにかかっており、彼らは自ら、告発された詐欺行為の共犯者として名指しされていた。私が垣間見た率直で恐れを知らない性格、高貴な子供のように正直で恐れを知らない澄んだ青い瞳から私に輝いていた誇り高く燃えるような真実性と、そのようなものをどう結びつけることができるだろうか? 『シークレット・ドクトリン』の著者は、このような惨めな詐欺師、詐欺師の共犯者、卑劣で忌まわしい欺瞞者、落とし戸やスライドパネルを操る手品師だったのだろうか?

私はその馬鹿馬鹿しさに大声で笑い、正直な人間が同胞を見分け、嘘の卑劣さと下劣さに身をすくめるような、正義感に満ちた軽蔑の念を込めて報告書を投げ捨てた。翌日、私はアデルフィのデューク通り7番地にある神智学出版会社の事務所へ行った。そこにはHPBの友人の中でも最も老練な人物の一人であるヴァハトマイスター伯爵夫人が勤務しており、私は神智学協会の会員になるための申請書に署名した。

証書を受け取ると、私はランズダウン・ロードへ向かい、そこでHPBが一人でいるのを見つけた。私は彼女のところへ行き、身をかがめてキスをしたが、何も言わなかった。

「協会に入会されたの?」

「はい」

「報告書は読まれたの?」

「はい」

「それで?」

私は彼女の前にひざまずき、両手を握りしめ、まっすぐに彼女の目を見つめた。

「私の答えは、私をあなたの弟子として受け入れていただき、世間の前であなたを私の師と宣言する栄誉を与えていただけるかどうかです。」

彼女の厳格で固い顔が和らぎ、普段は見られない涙が目に浮かんだ。そして、王族以上の威厳をもって、彼女は私の頭に手を置いた。

「あなたは高貴な女性です。師の祝福がありますように。」

(エドマンド・ラッセルの回想より)

私がHPBを訪問すると、彼女はテーブルのところに座って一人トランプ占いをしていた。それはリラックスするための彼女のいつもの習慣だった。

彼女の傍らの床には小さな灰色の髪の婦人が座っていて、『カードの配り手』のもう片方の手を自分の頬にしっかりとつけていた。その人は紹介されると頭を下げただけで何も言わなかった。私にはその人の名前は聞こえなかった。

その夜じゅう、彼女は手を離さなかった。まるで難破した水夫が、大蛸の触手にすがりついて、その蛸から力を引き抜いているかのようだった。

家路につきながら、私はクース夫人にこのたとえ話をした。

するとクース夫人は言った。『あなたはあの小さな灰色の髪の婦人が有名なアニー・ベサントだということが分からなかったのですか?』

1890年 42歳

フェビアン協会の会員資格を失効させ、マルクス主義者との関係を断つ。

自伝の中で、ベサントは「社会主義」の章に続いて「嵐を乗り越えて平和へ」という章、すなわち神智学の平和について述べている。1888年、彼女は自らを「神智学に向かって行進している」と表現し、それが彼女の人生の「栄光」となるだろうと述べている。ベサントは人生の経済的な側面には精神的な側面が欠けていると感じていたため、「愛」に基づいた信念を求めた。彼女はそれを神智学に見出し、神智学協会に入会したが、この行動によって彼女はブラッドローや他のかつての活動家の仲間たちから遠ざかることになった。

1891年 43歳

5.8 H.P.ブラヴァツキー死去。HPBは生前自分の後継者がベサントであることを少数の人々に内密に伝えていたとされる。

(アニー・ジャケスの回想より)

1889年の秋、アメリカに発つ前にHPBを訪ねた時、HPBはこう言った。

「ところでお嬢さん、私たちはもう二度とこの肉体でお会いすることはないでしょう」

私はびっくりして、「では、私はもうすぐ死ぬのでしょうか?」と叫んだ。

「あなたではありませんよ。でも、あなたが戻ってきた時には私はいないでしょう」

私は呆然として黙っていた。それから尋ねた。

「誰があなたの代わりをなさるのでしょう?」

老婦人はまる一分間、じっと私を見つめてこう言った。

「アニー・ベサントです。しかし、このことを人に話してはいけません。私は大師からお言葉をいただいています」

「けれど、あの冷たい、理知的な方がどうしてあなたの代わりになれるでしょうか?」

HPBは微笑んで答えた。

「彼女は霊的に花開くでしょう。そして柔らかに美しくなります。彼女は人々を感動させることができますし、私がしてきたことより、もっと大きな仕事をするでしょう。彼女は語学、特に英語をつかいこなす力をもっていますから」

私は頭を振って、賛成できないという身振りをした。しかし、大師方が一番よくご存じであることを認めないわけにはいかなかった。

(モーガン・プライスの回想より)

……その日の午後、HPBの後継者として、ベザント夫人は神智学協会の指導を任せるには未熟すぎるのではないかという考えが頭をよぎった。その考えにはほんの少しも悪意が混じっていなかったので、私はその考えをくよくよ考えることなくすぐに捨てた。

翌朝、目が覚めてベッドから起き上がると、目の前の空中に書かれたページが見えた。私は HPBの筆跡に気づき、ベザント夫人が後継者にふさわしいかどうか疑っていることを私が非難しているのだろうと推測した。そこで私は筆跡を読むことを拒否した。すると彼女は私の背骨に強力な電流を流し、筆跡を読ませようとした。私が頑固に読むことを拒否すると、彼女は私に聞こえる声で話しかけ、ベザント夫人に対する私の評価は間違っていると言った。ベザント夫人は彼女の「個人生徒」であり、協会のために大きなことを成し遂げるだろう。

私は当初の意見を固守したが、何も言わなかった。着替えてすぐにミード氏のオフィスに行き、その直後に HPBが隣の部屋から入ってきた。彼女は私たちに挨拶した後、「さて、プライス、最近また幻覚を見た?」と言った。彼女が私の背骨に流した電流のせいで頭皮はまだ痛かったが、「ええ、いつも通りに」と言った。

それから彼女は、私がここ数日、なぜ応接室にいなかったのかと尋ねたが、私が指示に従って夜勤をしていたと説明しようとすると、彼女は腕を振り出し、じっと空を見つめた。彼女の顔は恐怖の表情になり、半ば抑えた悲鳴をあげて「だめ!だめ!」と叫んだ。

彼女は幻を見ていた。そして、彼女のそばに立っていた私も、視覚的にではなく、一連の鮮明な心象としてそれを見ていた。その幻は、彼女の死後の神智学協会の運命を予見していた―――つまり、協会の分裂、誤った考えを持つ会員の嘆かわしい行為、そしてさまざまな派閥の偽善、偽造、愚行を。

幻が終わると、彼女は腕を下ろし、私も同じものを見たかどうか確かめるために私を見た。私の視線が彼女と合った。彼女は私の表情から、私もその恐ろしい幻を見たのだと悟った。彼女は何も言わずに振り返り、頭を下げてよろよろと自分の部屋に戻った。

ヘレナ・ブラヴァツキー(HPB)年譜(簡易暫定版)第二部

1879年(明治12年)48歳

2.16 インド、ボンベイに到着。

イギリスのリバプールを出てから、きびしい航海を続けて三十二日目、1879年2月16日の夕刻遅く、船客デッキで歓声があがりました。

「灯台だ。ボンベイ灯台が見えたぞ!……」

その声に皆は、トランプや本や音楽そっちのけで、デッキへ急ぎました。…時刻はすでに十時。皆、明日のことを夢見ながら、それぞれの船室へ引き取ります。しかし、その夜眠れた人はほとんどいなかったはずです。荷造りが忙しかったのはもちろんですが、穴だらけですぐ水が抜ける洗い桶には朝一番でおさらばしなくては……。「リバプール者の外航客船」という権威をかさに着てもったいぶっているボロ桶に余計に腹が立つのです。それから、酔っ払いで無礼で、皆を危うく遭難させるところだった船長、日曜ごとにトランプやチェスにつき合わされ、楽器の演奏まで押し付けた船長に、一刻も早くバイバイしたい……と眠るどころではありませんでした。

H.P.ブラヴァツキー『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』より

ボンベイの桟橋では、古代ヴェーダの啓示を信奉する人々が厳かに彼らを迎えた。

市内のインド人居住区に居を構える。その後数週間、インド各地を旅し、カルリー、ラージプート、アラハバード、アグラなどの有名な洞窟を訪問。

5月初旬、ボンベイに戻る。

インド到着当初から、警察による監視の目にさらされる。イギリス当局は彼女がロシアのスパイであると疑い、カトリック宣教師たちは彼女の活動を、異教徒を救うために神から与えられた権利への侵害とみなした。

HPBは精力的に活動を開始した。多くの仕事をこなし、地元や西ヨーロッパの出版物に記事を執筆し、地元の作家、オピニオンリーダー、貴族階級の代表者と会合を開いた。

10月、月刊誌『セオソフィスト(神智学者)』を創刊、自ら編集長に就任。

12月、神智学協会の一行が北インドのアラハバードへ旅立つ。アラハバードは、インド総督とインド政府が年間を通してほとんどの時間を過ごす場所であった。

12.4 アラハバードに到着。地元の英国当局と会談。影響力のある英印新聞「パイオニア」の編集者、AP・シネットと知り合う。アラハバードに約2週間滞在。その後、ベナレスへ向かう。

1880年(明治13年)49歳

新年最初の日にボンベイに戻る。

『ヒンドゥスタンの洞窟とジャングルから』という記事をロシアの新聞に連載。

5月、オルコットと共にセイロン島に到着し、3ヶ月間島で過ごした。この島で神智学協会の支部がいくつか設立された。

秋、シムラを訪れる。シネット邸に6週間滞在。彼女がその時に起こした超常現象がシネットの最初の著書『オカルト・ワールド』に記述され、この本はイギリスで広く話題となった。

影響力のある友人たちの要請により、ブラヴァツキーに対する警察の監視が解除された。

12月、神智学協会のモットーである「真理に勝る宗教はない」が、マガラジ・ベナレスのモットーとなる。

1881年(明治14年)50歳

HPBの仲介により、シネットとマハトマたちとの文通(マハトマ書簡)が始まる。

夏の終わりから秋の初めにかけてヒューム近郊のシムラで過ごし、10月末にラホールへ、その後北インドへと向かう。

5月、雑誌「ロシアン・ヘラルド」は小説「ラホールのダルバール」の掲載を開始した。11月下旬、彼女はボンベイの本部に戻った。

11月、フョードル・ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』第5巻第5章「大審問官」を英訳し出版。HPBはドストエフスキーについてこう書いている。

何が役に立つのかと問われたら、私たちは大胆にこう答えます。神智学の文献です。ただし、これにはアデプトや現象に関する本や神智学協会の出版物は含まれないことを付け加えておきます。ヨーロッパ世界が今必要としているのは、10名以上のロシアのドストエフスキーのような作家です。私たちの再覚醒の時代には、富や名声のために書く作家ではなく、生きた真理の言葉の恐れを知らない使徒、この世紀の膿疱性の傷を癒す道徳的な癒し手である、このような作家が必要なのです。社会を揺り動かすほど深い道徳観念を持った小説を書くには、文学的才能と、ドストエフスキーのような生まれながらの神智学者が必要です。

1882年(明治15年)51歳

3月31日、アラハバードへ行き、そこからカルカッタへ向かう。マハラジャから訪問の招待を受ける。その日の夕方、マハラジャの宮殿でベンガル神智学協会が設立された。

4月19日、ブラヴァツキーとオルコットはマドラスに向けて出航し、そこでマドラス神智学協会が設立された。同時に、本部をボンベイからマドラスに移転するという問題が持ち上がった。

11月17日、マドラス郊外のアディヤールに土地を購入。

健康状態が悪化したため、2か月間ダージリンに滞在。11月中旬にアラハバードのシネッツへ行き、その後ボンベイへ向かった。

12月19日、アディヤールに定住。

1883年(明治16年)52歳

ほぼ一年中アディヤールにある神智学協会の本部で過ごす。『セオソフィスト』誌の執筆に多くの時間を費やす。この年執筆された記事は著作集700ページにも及ぶ。

8月、ロシアで最初の神智学協会の支部がオデッサに設立され、N・A・ファデーエワが会長に就任。

12月、重篤な病気を患う。医師は早急に気候を変えるよう勧める。オルコットは彼女に付き添ってフランスへ行くよう招かれた。協会の事務は経営委員会に移管される。

1884年(明治17年)53歳

2月20日、一行はインドを出発し、3月12日にマルセイユに到着。

ブラヴァツキーとオルコットはニースへ向かい、レディ・ケイトネスと1週間を過ごした。その後、ケイトネスはパリで東西神智学協会を設立。

ニースの後、孤独を求めて一時的にパリに滞在し、「シークレット・ドクトリン」の執筆に取り組む。この時期、彼女の家を頻繁に訪れた人物の一人が、著名な天文学者カミーユ・フラマリオンだった。しかし、ヨーロッパで過ごした7ヶ月間は、彼女に安らぎと平穏をもたらすことはなかった。

ウィリアム・ジャッジがアメリカからインドへ向かう途中、フランスでHPBのもとに数ヶ月滞在。

4月、オルコットと共にロンドンへ行き、神智学協会のロンドン支部を再編成。その結果、ヘルメス・ロッジと呼ばれる新たなグループを結成することが決定され、ロンドン支部は元の形態を維持することになった。

パリに戻る。妹のヴィラ・ジェリホフスカヤと叔母のN・A・ファデエワがロシアから彼女のもとへやってくる。

6月29日にロンドンへ行き、その後エルバーフェルト(ドイツ)へ向かった。

この頃、アディヤールではクーロン夫妻がHPBがいかさま行為を働いていたと告発していた。ブラヴァツキーに対する公然とした嫌がらせキャンペーンが始まった。

10月、再びロンドンを訪れる。

10月23日、ペル・メル・ニュースペーパーズのインタビューで、彼女は「中傷者と偽造者を訴えるためにインドに戻る」と述べた。

1か月後、ポートサイドとカイロを経由してインドへ航海。カイロでは10日間拘留された。招待を受け入れ、高官を訪問。その結果、神智学協会の会員が補充され、エジプト首相ヌーバル・パシャが名誉会員となった。

12月21日、アディヤールに到着。インドは彼女を熱烈に歓迎した。ヒンドゥー教徒たちは彼女への挨拶の中で、「サンスクリット文学の復興、宗教と科学の調和への努力、死後の世界への光明、ヨーロッパ人によって歪められてきたアーリア人の知恵の忠実な伝承」に対して感謝を述べた。

マドラスの大学の学生たちは彼女に嘆願書を贈呈し、そこには次のように書かれていた。「あなたは生涯をかけて、オカルト哲学の真理を無私に広めてきました。あなたの素晴らしい著作『ベールを脱いだイシス』を世界に送ることで、私たちの古代の宗教と哲学の最も奥深い謎に光を当ててきました。」

HPBは書面による証拠を提出し、訴訟を起こして名誉を回復するために、裁判官、弁護士、または法律家との面会を強く求めた。しかし、神智学協会がこの問題を検討するために特別に設置した委員会は、「ブラヴァツキー女史は名誉毀損で訴えるべきではない」と決定した。なぜなら、裁判の場合、大師の存在やオカルト現象が一般の議論の場に持ち込まれることはないからである。

HPBは委員会の決定に従った。

ロンドン心霊研究協会は、事件の全容を現地で調査するため、弁護士をインドに派遣することにする。

12月、雑誌「ロシアン・ヘラルド」は小説「青い山々の謎めいた部族」の連載を開始。

1885年(明治18年) 53歳

1月中旬、容体が急激に悪化。医師たちは彼女の容態を深刻に懸念したが、その後、突如として驚異的な回復を見せた。

3月21日、ヘレナ・ペトロヴナは神智学協会の総会に手紙を送った。

「私は辞任せざるを得ません。辞任届は既に1884年9月27日に提出済みです。」

この声明は、彼女の主治医の診断書とともに『セオソフィスト』誌に掲載された。診断書には「…彼女の心臓の状態は完全な静穏を必要としています…私は彼女に直ちにヨーロッパへ行き、温暖な気候の地で暮らすことを勧めます。」と記されていた。

3月31日、重病のブラヴァツキーはインドを永久に離れた。

ナポリに到着。その後、トーレ・デル・グレコに短期間滞在。それからヴュルツブルク(ドイツ)へ。途中、ローマに1週間、スイスに1週間滞在。

8月中旬、ヴュルツブルクへ旅立ち、そこで『シークレット・ドクトリン』の執筆に取り組んだ。

HPBは孤独を望んでいたにもかかわらず、彼女の居場所はすぐに世間に知られるようになり、多くの訪問者が訪れるようになった。8月から9月にかけては、V・ソロヴィヨフ、ナデジダ・アンドレーエヴナ・ファデーエワ、後にハルトマン、ゲプハルト、ドイツ神智学協会会長のフッベ=シュライデンなどが訪れた。

11月にイタリアへ向かう途中、ストックホルム駐在の外務大臣の未亡人であるコンスタンス・ヴァハトマイスター伯爵夫人はヴュルツブルクに立ち寄り、ヘレナ・ペトロヴナの最期の日まで彼女の秘書として付き添った。

12月末、心霊研究協会(SPR)によるクーロン告発の調査報告書(ホジソン報告書)が発表された。その結論は、HPBが行った心理実験に疑問を呈する人々を支持するものであった。神智学協会内部にも疑念を抱く者が現れ、多くの者が協会を去り始めた。しかし、献身的な職員も残っていた。「シークレット・ドクトリン」の執筆作業は続けられた。

1986年になって、心霊研究協会はこの報告書が不当にHPBを非難するものであったことを公に認めた。

1886年(明治19年) 54歳

ケルンでゲプハルトと出会い、エルバーフェルトに彼を訪ねるよう説得される。HPBは同意するが、当初予定していた数日間の滞在ではなく、体調の悪化のため2ヶ月間延期されることになる。

7月にオステンドへ行き、そこで『シークレット・ドクトリン』の執筆を続けた。

インドでは、HPBを支持する70人のパンディット(インドの古代の教えに精通した科学者や専門家)が声明に署名し、敵対者たちが疑問視するマハトマの存在を主張した。

健康状態が回復に向かう。ヴァハトマイスター伯爵夫人は夏の終わりまでにオステンドに到着。

シネット著『ブラヴァツキー夫人の生涯からの事例』が出版された。この本は社会に大きな反響を呼び、そのおかげで、ホジソン報告書によって引き起こされたHPBに対する非難と誤解の波はいくらか収まった。

1887年(明治20年) 55歳

3月末、腎臓感染症にかかり危篤状態に陥る。医師たちは再び彼女の命を危惧する。

その晩、 夫人の命がもちこたえられるという希望はほとんどありませんでした。私が傍に座っていると、HPBは目を開けて、死が間近に迫ってどんなに嬉しく思っているか、大師はやっと自分を解放してくれる、 とそういうのです。それでもやはり、あの 『シークレット・ドクトリン」のことを大そう気にかけていました。私は原稿に細心の注意を払って、印刷上の指示と一緒にオルコット大佐に渡すよう言いつかりました。HPBは世間にもっと多くのことを書き残したかったのですが、でも大師は何が最良の道かをご存知でした。夫人は様々なことを私に言い残そうと時折口を開きました。そして、とうとう無意識状態に陥った時には、いったいどうなってしまうのだろう、と私は思いました。

(当時HPBと同居していたワクトマイスター伯爵夫人の手記より)

その夜伯爵夫人が寝込んでいるうちに、HPBの師が危機をはらんた生死の境目のその瞬間に現れ、衰弱していたHPBを回復させた。HPBは伯爵夫人の熱心な質問に答え、次のように語った。

「……ええ、確かに大師はここへいらっしゃいました。そして私に選ばせたのです。私の望みどおりの道、つまり、命を失って自由になるか、それとも生きのびて『シークレット・ドクトリン』を完成させるのか、そのいずれかを選ぶようにと……。その上、これから続く困難やイギリスでの生活がどれ程恐ろしいものとなるかも話して下さいました(というのも私はイギリスに行くことになっていましたから)。でも教えるよう私に任された数人の学徒のことや、ハートの血を捧げてきた神智学協会のことを考えたとたん、私はこの身を捧げてSDを完成させることを受け入れたというわけです。ところで、何か食べる物とコーヒーでも、それについでにタバコも……。」

5月1日、オステンドを出発し、ロンドンへ向かった。

バートラム・カイトリーはこう回想している。「到着後2時間も経たないうちに、HPB の作業道具はすべて開梱され、彼女は頭をフル回転させて仕事に取り掛かった。彼女の仕事ぶりは目覚ましいものだった。朝早くから夜遅くまで机に向かい、病に倒れた時でさえ、粘り強く仕事の推進を続けた。」

ブラヴァツキーがロンドンに到着してから3週間後、新たな神智学ロッジが設立された。彼女の哲学の信奉者たちが結集し、後に有名となる「ブラヴァツキー・ロッジ」を創設した。この名称を用いることで、彼らはコロンボやカトリック宣教師、そして彼らの背後にいる者たちが名誉を傷つけようとしていた人物を公然と支持したのである。

5月25日の会合で、雑誌「ルシファー」の発行を開始し、独自の出版社を設立することが決定された。同誌の編集長はH・P・ブラヴァツキーが務めた。2人目の編集長は、数年前に『道の光』を執筆した作家メイベル・コリンズであった。HPBはロンドンで、このコリンズの家に居を構えた。

ブラヴァツキー・ロッジがロンドン中心部により近い、より広い部屋を必要とした際、カイトリー兄弟はランズダウン・ロードにある、美しい庭園に囲まれた3階建ての建物を借りた。

9月に新居へ移転した時期は、重要な出来事と重なった。雑誌『ルシファー』の創刊号の発行である。この雑誌の発行部数は1万5千部だった。

1887年後半のHPB


1888年(明治21年) 56歳

11.1 『シークレット・ドクトリン(秘密教義)』第1巻が刊行される。第1巻の初版は即完売となり、増刷が必要となった。

12.28 『シークレット・ドクトリン』第2巻刊行。

HPブラヴァツキーはこの著作を「あらゆる国、あらゆる人種の真の神智学者すべてに捧げる。なぜなら、彼らがこの著作を生み出し、彼らのために書かれたものだからだ」と献呈した。

12月、著名なジャーナリストであり、ペルメル新聞の編集者でもあったウィリアム・ステッドは、ヘレナ・ペトロヴナにこう書き送った。

「あなたは実に威厳のある女性です。そして、あなた以外に『シークレット・ドクトリン』を書ける人はいないと思います。その異例な内容についてコメントする資格さえ私にはありません。あなたが生きる世界は想像もできないほど多面的で豊かですから、あなたを理解しているとは言えません。しかし、あなたの才能がこの世のものではないこと、そしてあなたが並外れた文学的才能と普及力を持っていることは、私も理解しています。」

秋、「ルシファー」は神智学協会の秘教部門の設立を発表した。オルコットはその目標と組織構造を発表した。

1 秘教哲学のより深い研究を通して、神智学協会の利益を促進する。
2 当該機関とその運営はすべてブラヴァツキー女史に委ねられている。

12月1日、ヘレナ・ペトロヴナは手紙を書き、その中で自身の使命を次のように述べた。「真実に目を向け、魂が利他主義、慈悲、そしてすべての生き物への愛に満ち、自分のことを最後に考える人々にのみ、私は道を示すことができるのです。」

ブラヴァツキーの晩年までに、1000人以上が秘教部門に入会を認められた。

年末、神智学協会の書籍を出版する出版社「HPBpress」が設立された。

1889年(明治22年) 57歳

パリ近郊のフォンテーヌブローで3週間を過ごし、チベット僧院で学んだ『黄金のタブレット』から選りすぐりの抜粋を英語に翻訳。この東洋の叡智の珠玉は「沈黙の声」として知られている。

フォンテーヌブローの後、フランス沖のジャージー島で2週間を過ごす。

雑誌『ルシファー』の次号の発行準備を進める。

『神智学への鍵』が、哲学対話の形式で書かれ、ロンドンで出版された。

1890年(明治23年) 58歳

年初、病気のため、しばらくの間、執筆活動を中断。しかし、『シークレット・ドクトリン』第3巻の記録を整理し、執筆を開始したばかりの第4巻に取り組んでいた。

8月、イーストエンドを訪れ、自身が出資した低賃金で働く若い女性のためのシェルタークラブを開設。

夏の終わりに「精神と精神活動」という論文を執筆。これは心理学分野における主要な神智学論文の一つである。この論文は『ルシファー』誌の10月号と11月号に掲載された。

年末に、『ブラヴァツキー・ロッジ議事録』の第一部がロンドンで出版された。第二部は1891年に出版され、これらを合わせて一冊の本となり、幾度も版を重ねて現存している。本書は「シークレット・ドクトリン」を扱っており、1889年1月10日から3月14日にかけて開催されたロッジの会合で寄せられた質問に対するヘレナ・ペトロヴナ自身の回答が収録されている。

彼女は生涯の最期の日まで、ロッジの会合を主催し続けた。

1891年(明治24年) 59歳

大規模な「神智学辞典」の編纂。本書は彼女の死後1年後の1892年にこのタイトルで出版された。また、1892年に「夢魔物語」として出版されたオカルト物語の一部を書き直した。

4月15日、ボストンで開催されたアメリカ神智学協会の年次総会に向けた年次メッセージを執筆。

4月25日、インフルエンザに感染。当時、ロンドンではインフルエンザが大流行していた。

5月8日、いつものようにオフィスで仕事をしていた時、静かに、誰にも気づかれることなくこの世を去った。傍らに立っていた親しい仲間たちでさえ、彼女の最期の息遣いに気づかなかった。

遺体は火葬され、遺灰の3分の1はアディヤールに、別の3分の1はロンドンの神智学協会ヨーロッパ本部に、そして残りの3分の1はニューヨークの神智学協会アメリカ本部に移送された。

彼女が他界した5月8日は、神智学徒に世界中で白蓮の日として祝われている。

この著作の目的は次のように言うことができよう。つまり、万物の存在は偶発的なものではなく、 必然の結果であると証明すること、 宇宙体系においての人間の正しい位置を明らかにすること、 さらに、 あらゆる宗教の基礎である太古の真理を忘却から救い、その基本的統一性を発見すること、最後に、これまで近代科学が取りあげなかった大自然の側面を示すことである。

もしこのことがいくらかでも成就されるならば、筆者は満足である。この本は人類への奉仕のつもりで書かれたものであり、人類によって、そして未来の世代によって判断されなければならない。私は未来の世代という"裁判所"よりも低い裁判所は認めない。悪口には慣れている。中傷には毎日出会っている。そして名誉毀損は沈黙の軽蔑で一笑に付そう。

法はつまらぬことには関与せぬ。

『シークレット・ドクトリン』まえがきより

नमसद्धर्मपुण्डरीक

この数日間、ふかわりょうに関する記事のせいでこのブログのアクセス数が異常なことになっていた。

なぜかGoogleとヤフーで検索するとこのブログの記事が上の方に出てくるようで、ふかわの大河出演で健作した連中からのアクセスが大量に舞い込んだようだ。

このブログは不特定多数のために書かれたものではなく、特定少数者のためのもの(もっとハッキリ言えばぼく自身が後で読むための備忘録)なので、不本意な形でアクセスが殺到するのは迷惑きわまりない話でしかない(とはいえまったく読まれないのも寂しいというアンビバレンツを抱えながらではある)。

そんなこんなで普段サッカーはまるで見ない(サッカーへの関心はライカールト監督のバルサとモウリーニョ監督のチェルシーのチャンピオンズリーグで止まっている)のにワールドカップは周囲の騒音があまりにも激しいのでついつい見てしまう。それで4年ぶりにレオザフットボールを見始めたら、笠原代表が辞任していたりシュワーボが一部まで上がったり影山優香の弟が執行役員になっていたりと、止まらなくなってしまった。

 

そんなところに美輪明宏さんの訃報。

作家の佐藤愛子先生に続いて彼女も後を追うようにして亡くなった。

お二人とも見事に天寿を全うされ、安らかに他界された。

當に観世音菩薩を観ずべし此の菩薩の身長八十万億那由他由句なり。
身は紫金色なり。

("観無量寿経"より)

『紫の履歴書』は、しかし、この特異な才能の味はつた世路の艱難を語つた本ではない。私は、一つの時世粧を作つた歌手兼俳優の自傳として、本書を昭和有数の奇書として推すものだが、この「奇書」は、実は、出世物語ではなくて、ふしぎなきらびやかな遁世の物語なのである。女方として生きることを決意したとき、この純粋な抒情的な魂は、その遁世を完成したのであつた。

特に詩の形で語られたその幼時期の回想は美しい。君は人間の世の中に、まづ辛苦を見ずに、やさしさを発見した。それも荒々しい素朴なやさしさを。この果実の味は、以後の人生観を決定するものとなる。つまり、そのやうな荒々しいやさしさの鋳型によつて、丸山明宏といふ、一人のやさしい荒々しさの嵐を創り上げること。人を苦しめる世間の惡意や俗惡は、このときから、君にとつて、何かなくてはならぬものになつた。失意をも、蹉跌をも、かうした人生は自ら選んでゆくものなのである。最終頁の詩に語られてゐるやうに、君に幸福をもたらすために再生する死んだ若者を永遠に待ちつづけ、それまでは幸福を節約するのだ。今の成功した君が幸福であらうなどと、 私はさらさら思つてゐない。本書を卒讀して、私は次のやうな月並な感想を抱いた。すなはち、人は、虚偽を以てまごころを贖ふことには十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を贖ふことには時あつて成功する。しかもこの上もない花やかな虚偽を!

三島由紀夫『紫の履歴書』序

馬鹿正直

 

私は幼いころから、よく人に嘲笑されて育ってきた。その原因は主に正直すぎるということだった。そういう種類の正直さは、上に二文字"馬鹿"という字が必要らしいのだけれども、 私はそれでも結構だと思っている。 誤魔化しだらけの不正直者でないだけ幸福だ、と自分の短所である長所に満足している。

だから私は、 よく騙される。

私を、まんまと一杯喰わせた人達は、陰へ廻って大声で嘲笑って喜んでいるらしいし、 また軽蔑し、哀れんだりもしているらしいのだが、 私は一向に気にしない。気にしないどころか、むしろ私の方がその人達を気の毒に思っている。

(世の中の汚れに負けてしまっている人)

たとえ人々に嘲笑われようと貧乏しようと騙されようと私は自分自身を鏡に映して、いま一人の自分に恥ずかしい惨めな思いをしなくてすむということが、また誇らかに胸を張って生きて行けるということが、どんなに幸福かしれない、といつも思っている。
世の人々からは表面的な社会的肩書き、 その他のために、 尊敬され、 畏敬されている人が、 自分自身に、また家族に、社会に、嘘をついて、自分を含めてそれらを誤魔化して暮して生きている場合が多々ある。私はその人が気の毒でならない。いつも、びくびくして嘘の皮を、あっち引っ張りこっち引っ張りして、繕っている態は本当に楽じゃないだろうなと同情に堪えない。

よく芸能界でも種々な賞があり、 それを欲しがる人も多いが、私は本当に負け惜しみではなく、そんなものは欲しくない。不正直な人が、くれる人爵よりも、正直な神々がくださる無冠の神爵の方が、より有難いものと思っているから。私はこの世を卒業するとき、 いままで御世話になった自分自身に、 決して、 そういう意味で、 情無い思いはさせたくないと思っている。

人間の魂は、 たかだか百年にすぎないこの世ばかりで終わるものではないのだから、誇らかに胸を張って、いつの日か神爵が頂戴できるよう、こつこつと生きて行こうと思っている。 馬鹿正直に。

催眠術

 

私は映画に出るのも嫌いではありません。 それは、後で自分の姿を何度も何度も点検し直すことが出来るからです。

しかし、それだけに真剣勝負の味わいは、生の舞台に比べると少ないように思われます。生の舞台では通り過ぎてゆく一瞬一瞬が二度とは帰って来ないものでありますし、撮り直しが出来ないからであります。

ですから、その瞬間瞬間のポーズ、動き、さまざまな流れゆく姿を、自分の頭の中に、大きな鏡を立てかけておいて観なければなりません。二階正面の席に、もう一人の自分がいて、今、自分がそこから観て、どんな演技が、歌がなされているか、客観的に見ることが出来るような理性が、どんな場合も必要なようであります。

ただ、いたずらに、そのとき、そのときの歌や役柄の内容の感情に溺れてしまうことは出来ませんし、そうかと言って、ある程度ほんのりと自分も酔うことができなければ、 観客をもまた酔わせることは不可能なのであります。その塩加減が問題であります。

舞台は、本当に魔術のようなものです。一種の催眠術かもしれません。スターと呼ばれる花のある舞台者になるには、ある程度催眠術の心得が必要かとも思われます。
それには、その人が強力なテレバシイを発散させるだけのエネルギーを常に持っていなければならないからであります。また、それを上手にコントロールしながら活用できる技術も持っていなければなりません。

たとえば登場という言葉があります。これは素人のど自慢や素人の演説会で、のこのこと舞台へ、ただ出て来るというだけでは、何もならないのであります。登場というのは、ただ出てくるというのではないのであります。

それには息を詰めて、自分の額の中央から強力な気か磁力に似たエネルギーを客席の一人一人の観客の額に設置されている受信機へ、それを送りこみ結びつけなければならない気迫なのであります。

スターとは、舞台へその姿を現わした瞬間華やかな色どりの紙吹雪を、天からさっとパラ撒いたような雰囲気を醸し出さなければなりません。それは、ふだんからの心意気といゝましょうか、念力といゝましょうか。それ次第で自分の周囲二メートル四方ぐらいの空気の色を、スイッチ一つで一瞬凝固させ、変えられるくらいの気合がなくてはなりません。

たぶん、それは念力、集中力、つまりテレパシーなのでしょう。それの弱い人は決して花のあるスターにはなれないのではないかと思われます。自分の額の発信機からの周波が観客の額の受信機に、がっちりと受け取められたとき、そのときこそ全て周囲のよけいな部分は姿を消し、時間は静止するのであります。ですから、どんな大舞台の中で、ただ一人階段を降りてゆくときでも、それさえ出来ていれば、催眠術にかけられた観客には、回りの余計な空間の広さは消えてしまって、その人だけが大きく見え、また感じられるのであります。

幕が開くとき、幕が閉じ終るとき、息を止めたままで緊張感を出すのです。自分の回りの空気が少しでも動いたりすれば観客の集中力も弱まってしまいます。そうかといって緊張感の連続では、張りっ放しの弓の弦と同じで、いつかは切れて観客も飽きてしまいますので、ときどきは、手相をゆるめて自分の身体中の力を抜いて、やわらかい微風を客席へ流しこむのであります。しかし、それをまた、ふわりとすくい上げて、もとの緊張感へ戻すタイミングと意気が並大抵の神経では難しいのであります。

芸事は全て呼吸法により成功、不成功、出来、不出来が決まるように思われます。邦舞を習っておりました頃に、亡くなりました藤間寿枝さんという老婦人からも同じことをよく注意されました。

"客席の方へ向かって一歩踏み出すときに、溜めていた息を、ふっと、はき出す。そうすると迫力を持って観客のふところへ送り出すことが出来るんだよ"という言葉でありました。

台詞も歌も、皆然りであります。

しかし"攻め"ばかりではいけないので、たまには断絶感も必要なのであります。白を際立たせるには黒が必要なのと同じことなのであります。

客席の方へ完全に横を向き、客席に向かっている方の層を心持、あげ、解台の奥へ向かっている肩を下げる。そして念力で見えない空気の幕を自分と客席との間に、すっと引きます。そして、それを解くときには、下げていた方の肩を軽く半回転させて体を客席へ向かせると同時に、 詰めていた息を、 ふっとはきながら、手をさし伸べるように心を向けると、今まで拒絶されていた演技者と観客の心が堰を切って流れ出す奔流のように通い合います。

そのような、さまざまな念力の操作による技術が自在に出来るだけの能力を身に着けることが、花のあるスターになれる第一歩かと思われます。自分の扮する役柄の人物の歴史や人柄、喜堅哀楽の感情をそのまゝ、そっくりうつし絵のように観客の心に投影させるという、つまり読心術の逆のようなものであります。

発声も(役柄、感情、職業、年令、相手役との声のアンサンプル、効果音楽とのパランス、衣装とのバランス、ドイツ式発声、イタリア式発声、フランス式発声、邦楽の発声、言葉のめりはり、発音)その諸々の要素を臨機応変に計算しながら声を出さねばならないのです。

衣装一つにしても、私は贅沢やお酒落で高価な生地を使用するのではありません。その生地の持つ重量感や気品が観客に無意識のうちに伝わって、その芝居全体を劇場一杯に格調高く、気品のあるものにすることが出来るのであります。そうなるともう、ただの布きれ一枚とは言えなくなるのであります。

絹一枚の光沢でも偽物と本物では、 皺一つ襞一つ、シルエット、雰囲気が、それぞれに異ります。前方の客は演技者の顔の表情でわかりますが、後方や三階席の観客には顔の表情などわかりません。そうすれば自然、衣装が遠くの観客からは、顔の表情、細かい手足の代わりと受け取れるのであります。ですから衣装とは、ただ衣装だけに終わるのではなく、自分の肉体の一部でありますから、自分の顔を偽物にしたくないためには、たとえ高価なものであっても、やはり本物を使用すべきなのでありましょう。

役者とは、たとえ乞食の役を演じても風格や品位を失ってはなりません。そこが生の乞食と舞台の乞食の異いがあるのでょう。
花のあるスターになることは何と大変なことでありましょう。

疲れ果てて、舌を出し肩で息をする野良犬のようになることがよくあります。
それでも、まだ目的地に着いたのではありません。

ほんの暫し休憩しているだけなのであります。まだまだその犬は野を越え、山を越えて努力して走り続けなければならないのであります。でも、仕方がないことです。
それは自分が選んだ道なのでありまずから。

永久に終着駅のない旅と知っていても。

待人

 

オルフのカンタータ

カルミナブラーナが聴こえてきました。

そうです。私は三百三十年前に十七才で死んだのです。

私が死ぬ少し前、

或る若者が流れ弾に当って死にました。

南の国でした。

潮騒は戦乱の夕焼け空に鳴り響いていました。

海辺に沿った城内は炎と煙の間に

竹槍や草刈り鎌を手にした百姓の

老若男女が累々と死体や傷ついた体を

土や鐘の上に横たえておりました。

女、子供の呻き声がはい廻っています。

六尺豊かな若者は長柄の槍を離すと

跪いた私の手をしっかりと握りしめ

夕映えに輝く瞳で私を必死に見つめながら

「貴方を幸福にして上げたかったのに

幸福にして上げたかったのに

今度、必ず来世に生れ変って来たら

貴方を幸福にしてみせます。

きっと、必ず貴方を幸福に……

潮風に喘ぐように息を引き取りました

私は彼の朱い血潮の胸に

静かにコンタスを置いて

お祈りをしました。

そして、泣きじゃくり何度も何度も彼の方を振り返りながら、

とぼとぼと炎の森の中へ

入って行きました。

「あゝ……神様……神様……」

金色と白い光がきらめきながら

天空から落ちて来ました。
……

あの時の彼の言葉を信じて

今、私は待っているのです。

美輪さんのことを丸山明宏といっていた頃、ぼくは美輪さんのコンサートを観た。ぼくが二十歳の頃勤めていた神戸新聞会館の大劇場であった。 神武以来の美少年と騒がれたシスター・ボーイ姿の丸山明宏は、ぼくの目からは天上の人に思えた。そして、客席のぼくとステージの丸山明宏との距離は地球と星のそれのように無限に遠い存在のように思えた。それほど美少年であった。

そんな丸山明宏だった美輪さんと友達になれるなんて当時はとても考えられないことだった。

彼はぼくの中では半ば架空の人物でもあった。 だから今だに美輪さんはこの世の人ではないように思えてならないのだ。このことは実際美輪さんと会ってじっくり話しているとますますそう確信できるのである。 神か仏の化身としての美輪さんがぼくの前で光輝してくるのだ。

とにかく美輪さんには何かが憑いているとしか考えられない恐ろしい霊気さえ感じる。これは本当である。美輪さんには過去・現在・未来を見通す超能力があり、人間と宇宙の様々な関係の理法を体得して、自由自在に自他をコントロールされているように思う。また美輪さんは生きながらに死に、死にながらに生きているようなところがあって、生死の区別のない世界を行き来している。

こうした美輪さんの生き方の中にぼくは今日の混迷した思想を超えた何か大きな存在を感じる。 それはこの宇宙界における一なる真理と波長を合わせた美輪さんの仏意識かも知れない。

そんな美輪さんといると何ともいえない安心感に解放される。菩薩の慈愛に似たこの感覚は人間本来の感覚であり、 この感覚から生まれ、 そしてこの感覚世界にいずれ到達しなければなないという宇宙のサイクルの法則を感じるのである。人間は生まれながらに菩薩であり、このことは宇宙の真理でもあると、美輪さんの高いバイブレーションが教えてくれる。

美輪さんには不思議な引力がある。だから美輪さんを頼って浮遊霊が集まって救いを求める。

美輪さんはたちまちお経を上げて彼等を鎮魂させてしまう。ぼくには見えない霊姿を見てぼくを驚かすことがあるが、これは本当に美輪さんには見えているのである。ぼくの過去世まで見てくれた。またぼくが将来描くであろう絵の実相まで見て教えてくれた。そしてこの作品を発表している展覧会場の風景まで美輪さんには見えるのである。ぼくはなんだか美輪さんが教えてくれたぼくの将来の絵に導かれながらそっちへ行き、そのような絵を描くような気がしてならない。恐らくそうなるだろう。未来はすでに決定しているのである。美輪さんには未来が予見できるのである。

減多に会う機会はないが、それでもどこかで会うと、「あっ、よくなったわね」といってくれる。全く心身共に自信がない時でも、美輪さんに第一印象でこういわれた途端、本当に何か悪いツキがスーッと落ちていくような感じで、実際好転するのだ。美輪さんの言葉には力がある。霊力のようなものが確かにある。

横尾忠則『昨日のぼく今日のぼく』講談社、1980.7

堂々たる美女

佐藤愛子

「この次の列伝は美輪明宏さんにします」

電話で編集部のUさんにそう告げたら、Uさんはとまどったような声を出した。

「あのう……テーマは美女列伝なんですけど」

「ですから美輪明宏さん」

「あのう、美輪さんは……あのう」

「いいんです、美輪さんで」

決然といえばUさん、

「はァ……わかりました」

とまどった声のまま電話は切れた。

何をとまどうことがある。

人が何といおうと、何と思おうと、美輪明宏は天下の美女である。

美女中の美女、堂々たる美女、肌もあらわな黒のイブニングが似合う稀有の美女である。

黒のイブニングが似合うということはどういうことか。

そこらそんじょらのただの美人ではないということである。

ただの美人でないということはどういうことか。

貫禄ある美人ということだ。

貫禄ある美人はどうして作られるか。

容姿への自信と共に人生に対する自信によって作られる。

従って黒のイブニングの似合う美女は、そうザラにはいないのである。

黒のイブニングを着た美輪さんが現れるときは、まさに「登場」という言葉にふさわしい現れ方をする。

「美輪さんが来たわ」ではなく、「美輪明宏が登場した!」

である。美輪明宏は登場して、

「いらっしゃい」

にィと笑う。その瞬間、私は男になったような錯覚に陥る。つまり、女としての立場、ちょっとでもキレイに見せたい、みられたいなんて意識を放棄してしまう。

私なんか出るマクじゃない、そういう思いにさせられる。見せる側から見る側へと移行してしまうのだ。ただ呆然と眺め、感心と嘆息の吐息を洩らすばかりである。

私は美輪さんに会うたびに思う。

──この人、なに食べてんだろう?

銀の器に盛られたクジャクの冷肉か、紅バラを浮かせた海ガメのスープか、龍宮のコケで作ったプディングか。そのような山海の珍味を、彼女はパクパク食べるのではなく、ほんの一匙か二匙、紅唇に運び入れるだけ。

タクアンをバリバリやったり、塩ジャケの身をむしったり、フウフウ吹きながら焼芋の皮をむいてパクついたり……美輪明宏がそのようなものを食べているなんて、想像も出来ない。いや、そんなことがあってはならぬのである。

「美輪さん、何を食べてるんですか?」

ある日、思いきって訊いてみた。

「何でも食べますよ、何でも……好き嫌いはありません」

そしてにィと笑う。

瞳と唇に、煙るようなそよぎが起る。それが美輪明宏の笑いだ。

「ヤーハハハハハァ」とか、

「わーッはッはッはッはァ」

などと、大口あけ、お腹をゆすり、あるいは身をよじらせて笑いこける、なんてことは美輪さんにはあり得ない。あってはならないのである。

私はまた美輪さんに会うと、こんなことを思う。

──この人、どんな男と恋を語るんだろう?

クラーク・ゲーブル扮するレッドバトラーか。あるいはリチャード・バートン扮する中世の騎士か。

胴長短足のメガネ。ステテコはいてる男、おでん屋ののれんから、ツマ楊枝で奥歯をせせりながら出て来るおっさん……まさかそのような男と恋を囁くなんて想像出来ない。いや、そんなことがあってはならないのである。

──美輪さん、どんな人と恋を語るんですか?

今度会ったら聞いてみようか。しかし、

「誰でも好きよ。誰でも……好き嫌いはないの」

そういわれたら、私、困るなァ。

「あら、今のは長崎弁じゃなくて東北弁よ。私、東北弁って好きなの、とっても。東北出身のお友だちが割と多いせいかよくしゃべるし、それに素朴な響きが何よりもいいじゃない?」──美輪さん

文=佐藤愛子 撮影=清水正康 『婦人画報』1978年2月号より

ヘレナ・ブラヴァツキー(HPB)年譜(簡易暫定版)第一部

1831年(天保2年)0歳

8.11 ロシア帝国領だったエカテリノスラフ(現ドニプロ、ウクライナ)の貴族の家にヘレナ・ペトロヴナ・ハーン・フォン・ロッテンシュテルンとして生まれる。

母親はヘレナ・アンドレーエヴナ・ハーン・フォン・ロッテンシュテルン、当時17歳。父親はピョートル・アレクセーエヴィチ・ハーン・フォン・ロッテンシュテルン、当時33歳。ドイツのハーン貴族の末裔で、ロシア王立騎馬砲兵隊の大尉を務め、後に大佐。

1836年(天保7年)5歳

父ピョートルがサンクトペテルブルクに赴任し、一家で移り住む。そこで母は「ゼナイダ・R-ヴァ」というペンネームで小説を執筆し、イギリスの小説家エドワード・ブルワー=リットンの作品をロシア語に翻訳するなど、文学者としてのキャリアを築き、「ロシアのジョルジュ・サンド」と呼ばれる。

1842年(天保13年)11歳

6月、母が結核で亡くなる。享年28。

残された3人の子供は、祖父のアンドレイがサラトフ県知事に任命されていたサラトフに住む母方の祖父母のもとに送られた。親族の証言によると、彼女は主に下層階級の子供たちと交流し、魔術ごっこのいたずらをしたりしていた。

母方の曽祖父であるドルゴルーコフ公爵(1838年没)の個人蔵書を発見。秘教に関する様々な書籍を熱心に読む。ドルゴルーコフは1770年代後半にフリーメイソンに入会し、厳格遵守の儀式に所属。アレッサンドロ・カリオストロとサンジェルマン伯爵の両方に会ったという噂があった。

英語、フランス語、チベット語、美術、音楽(ピアノ)、乗馬の教育を受ける。

1844年(天保15年)13歳

この年から翌年にかけて父に連れられてイギリスはじめヨーロッパを旅行する。ロンドンではボヘミアの作曲家イグナツ・モシェレスからピアノのレッスンを受け、クララ・シューマンと共演したという。

ロシア帝国の初代首相となるセルゲイ・ヴィッテの母である叔母のエカテリーナ・アンドレーエヴナ・ヴィッテと1年間暮らした後、ジョージアのティフリスに移る。そこでは祖父のアンドレイがトランスコーカサスの国有地の責任者に任命されていた。

ティフリスでロシアのフリーメイソンでありゴリツィン家の一員であるアレクサンドル・ウラジミロヴィチ・ゴリツィンと友情を築き、彼が彼女の秘教的な事柄への一層の関心を促した。

1849年(嘉永2年)18歳

7.7 17歳でエリヴァン州の副知事を務めていた40代男性、ニキフォル・ウラジミロヴィチ・ブラヴァツキーと結婚。式の直前に撤回しようとしたが認められず。

「あなたは私と結婚して大間違いを犯しています」と、結婚前に彼女は夫に言った。「あなたは自分が私の祖父になるくらいの年齢であることはよくわかっています。あなたは誰かを不幸にするでしょうが、それは私ではありません。私としては、あなたを恐れてはいませんが、私たちの結婚で何かを得るのはあなたではないと警告しておきます。」(妹ベラ・ペトロヴナ・デ・ジェリホフスキーの回想録より)

夫とサルダール宮殿に移り住むが、逃げ出してティフリスの家族のもとに戻ろうと試みる。ついに夫が折れて最終的にオデッサに送られたが、そこで護衛から逃れ、単身コンスタンティノープルに渡る。

コンスタンティノープルでハンガリーのオペラ歌手アガルディ・メトロヴィッチと親交を深める。

1850年(嘉永3年)19歳

コンスタンティノープルでソフィア・キセリョーヴァ伯爵夫人と出会い、彼女と共にエジプト、ギリシャ、東ヨーロッパを旅する。カイロでは、後に中東について多くの著作を残したアメリカ人の美術学生アルバート・ローソンと出会い、二人でコプト教の魔術師パウロス・メタモンを訪問。

1850年ころのブラヴァツキー

1851年(嘉永4年)20歳

パリに向かい、催眠術師ヴィクトル・ミハルに会う。ロンドンのハイドパークで、子どもの頃から何度も幻視していたインド人貴族の身なりをした長身の男性に声を掛けられ、彼女には果たすべき使命があり、将来チベットへ行くことになると告げられる。

このインド人貴族は彼女の師エル・モーリヤであり、当時インド外交団の一員として訪英していた。ビクトリア女王に謁見し、インド植民地政策について進言したが、受け入れられなかったという。

HPBはそれからアメリカ大陸を経由してアジアに向かい、日本を訪れて山伏と接触したという。

秋、カナダに向かい、ケベックの先住民コミュニティを訪れ、魔術を学ぼうとしたが、逆に強盗に遭う。

南下し、ニューオーリンズ、テキサス、メキシコ、アンデスを訪れ、西インド諸島から船でセイロン、そしてボンベイへと移動。そのままインドで2年間を過ごす。

1853年(嘉永6年)22歳

インドからチベットに入ろうとしたが、国境でイギリス植民地政府によって阻止される。

1854年(嘉永7年)23歳

船でヨーロッパに戻り、喜望峰付近で難破を生き延び、1854年にイギリスに到着。

イギリスでは、イギリスとロシアの間でクリミア戦争が続いていたため、ロシア国民として敵意に直面した。ロンドンでは王立フィルハーモニック協会のコンサートミュージシャンとしてベートヴェンのピアノ協奏曲などを公演。

アメリカへ航海し、ニューヨーク市を訪れ、そこで前述のアルバート・ローソンと会った後、シカゴ、ソルトレイクシティ、サンフランシスコを巡り、その後日本経由でインドへ。カシミール、ラダック、ビルマで時間を過ごす。

1856年(安政3年)25歳

カシミール経由でチベットへ二度目の潜入を試みる。シベリアを目指していたタタール人のシャーマンが同行し、今回は成功した。

インドに戻り、マドラスとジャワを経由してヨーロッパに戻り、フランスとドイツで過ごす。

1858年(安政5年)27歳

ロシア北西部のプスコフで暮らしていた家族のもとに電撃的に帰宅。

ロシアに戻った後、彼女はまずプスコフにやって来て、そこに住み着きました。当時、私は父と一緒にそこに住んでいました。8年間姉からは何の音さたもありませんでした。私たちは姉が来るとは思っていませんでしたが、不思議なことに、玄関のベルが鳴ったのを聞くと、姉が来たと知って飛び起きました。たまたまその晩、私が住んでいた義父の家でパーティーが行われていました。その晩、義父の娘が結婚することになっていて、ゲストはテーブルに着席し、そこに玄関のベルが鳴り響いたのです。、私は姉が来たと確信していたので、皆が驚いたことに、急いで結婚披露宴の席から立ち上がり、召使いたちにドアを開けさせないように走りました。

私たちは抱き合い、喜びに満たされ、一瞬、この出来事の奇妙さを忘れました。私はすぐに彼女を自分の部屋に連れて行き、その晩、姉が不思議な力を得たことを確信しました。彼女は、起きていても寝ていても、常に不思議な動き、奇妙な音、家具、窓ガラス、天井、床、壁などあらゆるところから聞こえる小さな叩き音に囲まれていました。それらは非常にはっきりしており、おまけに知的なもののようにも見えました。こちらの質問に応答し、一度叩き、3回叩くと「はい」、2回叩くと「いいえ」でした。

姉は私に、彼らに心の中で質問をしてみなさいと言いました。私は、自分だけが知っている事実に関する質問を選んで、その質問をしました。すると、返ってきた答えはあまりにも真実で正確だったので、本当に驚きました。

当時は、その現象に働く力は未知で、ほとんど姉自身の意志とは無関係でした。28歳の彼女には、その力を制御する力はなかったのです。

(妹ベラ・ペトロヴナ・デ・ジェリホフスキーの回想録より)

1860年(万延元年)29歳

妹とティフリスに住む母方の祖母を訪ねる。夫と和解し、ユーリという名の子供を養子に迎えたが、ユーリは5歳で亡くなった。

1864年(文久4年)33歳

ジョージア西部のミングレリアで乗馬中に落馬。脊椎骨折で数ヶ月間昏睡状態に陥る。

ティフリスで回復した時、超常的な能力を完全に制御できるようになったという。

イタリア、トランシルヴァニア、セルビアを旅し、ラビと共にカバラ(ユダヤ神秘主義)を学ぶ。

1867年(慶応3年)36歳

バルカン半島、ハンガリー、イタリアに進み、ヴェネツィア、フィレンツェ、メンターナに滞在。ガリバルディの義勇軍に参加し、メンターナの戦いで瀕死の重傷を負う。

1868年(慶応4年)37歳

コンスタンティノープルからトルコ、ペルシャ、アフガニスタンを経由してインドに入り、カシミール経由で再びチベットに入る。ここで彼女の師であるエル・モーリヤとその盟友クート・フーミ(二人は神智学徒から智慧のマスターとして尊敬されている存在)の庇護下に2年ほど滞在する。

シガツェのタシルンポ僧院でセンザール語を学び、僧院が保存している多くの古代文書を翻訳。その中には後年出版した『沈黙の声』の原書『金箴の書』もあった。

1870年(明治3年)39歳

チベットを出てスエズ運河経由でギリシャに向かう。そこで別の大師ヒラリオンに会ったという。

1871年(明治4年)40歳

7月、「SSエウノミア号」に乗ってエジプトに向けて出航したが、航海中に船が爆発。わずか16人の生存者の一人となる。

カイロでスピリチュアリズム協会(ソシエテ・スピリット)を設立するが、集まってきた霊媒師の多くが詐欺師だと判断、2週間で協会を閉じる。

1872年(明治5年)41歳

7月、シリア、パレスチナ、レバノンを巡った後、オデッサの家族のもとに戻る。

1873年(明治6年)42歳

4月に家を出発し、ブカレストとパリで過ごす。アメリカに行くよう師から指示を受ける。

7.8 ニューヨーク市に到着。マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのマディソン・ストリートにある女性用住宅協同組合に住み、裁縫などの内職で賃金を得る。このときデザインを手がけたイラスト入りポストカードはアメリカで初めての商業用広告カードだったという。

父親の死により莫大な財産を相続し、豪華なホテルに移り住む。

1874年(明治7年)43歳

10月、バーモント州チッテンデンで空中浮揚や霊的現象を起こすというエディ兄弟を訪ね、そこでデイリー・グラフィック紙のために兄弟の主張を調査していた記者ヘンリー・スティール・オルコットと出会う。オルコットは南北戦争に従軍して大佐まで昇進し、1868年のリンカーン大統領暗殺事件の調査にも加わった。同年弁護士となる。

オルコットはブラヴァツキーが起こす霊的現象に感銘を受け、彼女に関する記事を書いた。二人はすぐに親しい友人となり、お互いを「マロニー」(オルコット)と「ジャック」(ブラヴァツキー)というニックネームで呼び合うようになる。

12月、ミヘル・ベタネリというグルジア人の熱心なプロポーズに折れて結婚。最初の夫はまだ生きており重婚だったということで後にスキャンダルの種にされる。夫婦生活を拒絶されたため結局ベタネリは離婚を申し立て、グルジアに戻る。

1875年(明治8年)44歳

1月に足と膝を負傷し悪化。5月には麻痺し、医師から足の切断を勧められるが断る;「私の足が私より先に霊界に行くなんて想像できません」。

6 月 3 日の真夜中、ブラヴァツキー夫人は冷たく、脈がなく、硬直していた。負傷した足は、本来の 2 倍の大きさに腫れ上がり、黒くなっていた。彼女の医師は彼女を諦め、付き添いの人たちは彼女が死んだと思った。しかし、数時間以内に腫れは治まり、彼女は生き返った。彼女の足は、2日間冷たい湿布をし、夜に白い子犬をその上に寝かせた後、治癒した。白い犬の物語はフィラデルフィアの伝説となり、ブラヴァツキーが住んでいた建物には1883年から「ホワイト ドッグ カフェ」というレストランがある。

その間、HPB は重病で、夫のマイケル C. ベタネリーによると、彼女は時々「死んでいる」ように見えた。マスター セラピスがオルコット大佐に宛てた手紙からわかるように、彼女は深刻な試練、つまり入信儀式を受けた。6月末までに、HPB は完全に回復した。(A.P. シネット『マダム・ブラヴァツキーの生涯の出来事』)

9.7 ブラヴァツキーとオルコットが開催した「ミラクル・クラブ」の会合で、アイルランド出身の弁護士ウィリアム・クアン・ジャッジを加えた3人が「神智学協会」を設立することに合意する。設立時にオルコットが議長に任命され、ジャッジが書記、ブラヴァツキーが通信書記に任命された。

1875年ころのブラヴァツキー

『ヴェールを剝がされたイシス(ISIS UNVEILED)』の執筆にとりかかる。

1875年の夏のある日、HPBは、自分の書いた草稿を何枚か私に見せて言った。「昨夜、命じられてこれを書いたのだけれど、いったい何なのか、私にはまるで分らないの。新聞記事になるのか、本になるのか、何にもならないのか。とにかく、私は命じられたようにしたわ。」そして、それを引き出しに放り込んでしまうと、しばらくの間、それ以上のことは言わなかった。しかし、9月になると彼女はシラキュース(ニューヨーク)に行き、新しい友人であるコーネル大学のコーソン教授と夫人を訪ねた。そして、執筆が続けられた。彼女は私に、それが東洋の諸学派の歴史や哲学、および現代西洋のそれらとの関係に関する本になるだろう、と手紙をよこした。彼女は、自分が学んだこともないものごとについて書き、まったく読んだこともない書物から引用している、と述べていた。しかも、コーソン教授が、それが正確かどうか確かめようと、彼女の引用文を大学図書館にある古典の書物と比較したところ、まちがいないことがわかった、とも…

(オルコットの日記より)

この本はコーソン教授のイサカの自宅で書き始められ、後に「ラマ僧院」の名で知られるようになるニューヨーク47番街西302番地のフラットで書き進められた。

1877年(明治10年)46歳

9.29 『ヴェールを剝がされたイシス(ISIS UNVEILED)』、JW ブートンによって 2 巻で出版。第1刷1000部は10日で売り切れた。

1877年ころのブラヴァツキー

『ベールを脱いだイシス』に共通するこれらの多様なテーマの根底にあるのは、宇宙、自然、そして人間の生活への時代を超越した秘教的指針である、古代の叡智宗教の存在である。人間の多くの信仰は、プラトンと古代ヒンドゥー教の賢者たちの両方に知られていた普遍的な宗教に由来すると言われている。叡智宗教はまた、「科学と神学における絶対者への唯一の鍵」(I、vii)としてヘルメス哲学と同一視されている。すべての宗教は同じ真理、すなわち「秘密の教義」に基づいており、そこには「普遍科学のアルファとオメガ」(I、511)が含まれている。この古代の叡智宗教は未来の宗教となるだろう(I、613)。— 歴史家ニコラス・グッドリック=クラーク、2004年

この本は科学をテーマとする第一巻と宗教哲学をテーマとする第二巻に分かれ、後者でブラヴァツキーは神学的キリスト教を自由思想の最大の敵として批判している。序文に彼女はこう書いた:「私たちは、歴史と科学の両方を奴隷化しようとする教条主義的な神学者、そしてとりわけ、啓蒙されたキリスト教世界の大半から憎悪されている専制的な主張を掲げるバチカンに挑戦状を叩きつける。」HPBはカトリック教会の残忍な異端審問や魔女狩りの歴史、バチカンで行われている黒魔術の実態などを暴露し、特にイエズス会の権力欲と腐敗を強烈に糾弾している。また初期キリスト教と仏教の比較、古代の「異教」がナザレのイエスの教えに与えた影響などが論じられている。

アイヴァソフスキーは、私に『ヴェールを脱いだイシス』とオルコットの『あの世の人々』を貸してほしいと頼みました。この2冊を読んだ後、彼は私にこう書いてきました。「通常であれば、科学者が10年かけても到底完成しないような本を、わずか数か月で女性が書いた『イシス』のような本ほど素晴らしい現象は、これまでも、これからも、あり得ない」。M.ソロヴィオフとアイヴァソフスキー大司教は、私の姉があの本を執筆して成し遂げたことの後では、彼女の他の奇跡について話す必要はないように思われると私によく言いました。

(妹ベラ・ペトロヴナ・デ・ジェリホフスキーの回想録より)

1878年(明治11年)47歳

5月、神智学協会は、スワミ・ダヤナンダ・サラスワティによって設立されたインドのヒンドゥー教改革運動であるアーリヤ・サマージと提携を結ぶ。

6月、イギリスに神智学協会支部(ロンドン・ロッジ)設立。

7.8 アメリカの市民権を取得。アメリカ市民として帰化した最初のロシア人女性となる。

12月、インドに移住するため、所有物を競売にかける。神智学協会の会員だったトマス・エジソンはインドに持っていくために蓄音機を贈った。

ヘレン・P・ブラヴァツキーは、本人の言葉通り、アメリカを永遠に去る。今朝、ずぶ濡れの記者が8番街と47丁目の角にある快適なフランス風のアパートにたどり着き、電話に出たのは黒人の使用人だった。使用人は、こんな早朝に女主人が誰かに会うかどうか、深刻な疑問を呈した。しかし、記者はひどく散らかった朝食室に通され、空いている椅子に座るよう勧められた。この散らかり具合は昨日の競売の結果であり、残っているのは片付けられていない朝食テーブルと3人の人間だけだった。オルコット大佐はテーブルに座り、ノートにメモを書き込みながら、口ひげの端まで届こうと奮闘するも無駄に終わった吸いかけの葉巻で立派な口ひげを焦がしていた。

記者がようやくブラヴァツキー夫人の部屋に通されると、夫人は手紙とタバコが山積みになったテーブルの端に座り、有名なトルコ産の葉タバコを束ねて香りの良いタバコを巻いていた。その部屋は、近年広く知られるようになったラマ寺院の奥まった場所だった。
 
記者は「それで、あなたはアメリカを離れるつもりですか?」と尋ねた。
 
「ええ、そして私がたくさんの幸せな時間を過ごしたラマ寺院も。この部屋を離れるのは寂しいけれど、今となっては後悔することはほとんどないわ」と、がらんとした床や壁を見回しながら、「でも、あなたの国から離れられるのは嬉しい。あなたには自由はあるけれど、それだけ。しかも、その自由が多すぎるのよ!」
 
「いつ出発する予定ですか?」
 
「いつになるか、どの船に乗るかはまだ分かりませんが、もうすぐです。まずリバプールとロンドンに行きます。そこには神智学協会の支部があります。それからボンベイに直行します。ああ、愛するインドの故郷にまた行けるのが待ち遠しいわ!」そう言って彼女は立ち上がり、奇妙なデザインのモーニングガウンを身にまとった。彼女は自分がそうではないと主張する東洋の巫女のように見えた。

(ニューヨーク・デイリー・グラフィック紙、 1878年12月10日に掲載されたブラヴァツキーへのインタビューより)

12.17 オルコットとインドに向け出発。カナダ号に乗ってニューヨーク市を出発し、ロンドンに向かい2週間滞在した後、リバプールからスペーク・ホール号に乗船。

先週の日曜の夜、神智学協会の会員や友人たちを招いた送別会が、8番街の「異教徒」として知られるH.P.ブラヴァツキー夫人によって催された。彼女はH.S.オルコット大佐ら神智学徒と共に、ボンベイへ向かう途上の寄港地であるリヴァプールへ向けて、昨日出航したばかりである。「ラマ寺院(彼女の住居の愛称)」の広々とした部屋からは家具が運び出され、カーペットさえも剥がされて売却されていた。そのため、客たちは売る価値もほとんどない数脚の椅子や、輸送用に紐で縛られ宛先が記された木箱やトランクの上に腰を下ろしていた。いつものように、軽食や飲み物はふんだんに用意されていた。売却の結果、手元に残ったティーカップはわずか3客だったため、それらを回し使いながらお茶が振る舞われたが、客たちは皆、パイプかタバコのいずれかをくゆらせていた。長らく続いた「日曜夜の集い」もこれで終わりを迎えることとなり、会場には、いつもより多くの神智学徒が集まっていたが、その雰囲気はどこか沈んでいた。

神智学協会の将来についての話題も多く交わされた。同協会は現在、アーリヤ・サマージ(アーリヤ・サマージ・オブ・アーリヤワリ)と提携しており、世界の精神的・宗教的自由の発展において強力な役割を果たすことが期待されているからだ。しかし、当然のことながら、個人的な思い出や将来への展望についての話の方がはるかに多かった。ブラヴァツキー夫人もまた、会話の主導的な役割を担っていた。

彼女がアメリカで過ごした歳月についての回想は、決して明るいものではなかった。「あなた方が誇る文明など、私は大嫌いです」と彼女はきっぱりと言い放った。その一方で、未来への展望は希望に満ちたものだった。

「私はボンベイへ行き、愛する『異教徒』たちと共に過ごすつもりです」と彼女は語った。「彼らは少なくとも、キリスト教のくびきからは解放されていますから。イギリスには支部を訪問するために1、2日立ち寄るだけで、すぐにインドへ向かいます。現地に着いたら、まず何をするかと言えば、トラ狩りです。友人と二人きりで、案内人もつけずにジャングルに入り、二人ともトラの毛皮を手に入れるまでは戻ってこないつもりです」

「ですが、私がインドへ行くのはそのためだけではありません」と彼女は続けた。「アーリヤ・サマージのために活動するためです。近いうちに、その活動の知らせを耳にすることになるでしょう」

やがて一人の男が蓄音機を携えて入ってきた。それは、インドへ確実に挨拶の言葉を届けるために用意されたものだった。背の高い彫刻家が腰掛けていた樽から退いてもらい、蓄音機が据え付けられた。そして、紙製のラッパに向かって挨拶の言葉が叫ばれ、陽気なイギリス人の芸術家がピジン・ヒンドゥスターニー語で歌を吹き込んだ。続いて、チャールズという名の巨大な神智学徒の猫が機械に向かって喉を鳴らすよう促され、録音された数々のレコードは丁寧にしまわれた

深夜を過ぎても語らいは続き、2世紀の教会に関する文献から、アーリヤ・サマージ(インドの改革派宗教団体)に対するイギリス側からの最新の攻撃に至るまで、宗教的な話題が論じられた。月曜と火曜で荷造りが完了し、火曜の夜には一行が「カナダ号」のサロンに集まった。その間、チャールズはある善良な神智学徒の家へ預けられることになっていたが、移動中に籠から姿を消してしまい、それ以来行方知れずとなっていた。「どこにいるのかは分からないが、ボンベイに着けば見つかるだろう」と、その指導者は言った

昨日の朝、旅立つ一行の親しい友人たちが、見送りのために蒸気船を訪れた。指導者は船室のテーブルで何通もの最後の書簡を書き、次々と使いの者を様々な用事で走らせ、新しく選出された役員たちに協会の今後の運営についてあらゆる指示を与えた。ブラヴァツキー夫人は船室でさながら女王のように人々を迎えていた。そこでは例によって大量のタバコがくゆらされ、最も忠実な弟子たちが、彼女との別れを惜しむ悲しみを彼女に伝えていた。

「旅立つのは嬉しいけれど、ここで出会った数少ない良き友人たちと離れるのは寂しいわ」と彼女は言い、人々は一人また一人と、おそらくはこの地上での最後となるであろう別れの挨拶を彼女に交わした。

(ニューヨーク「サン」紙、1878年12月19日の記事

1879年(明治12年)48歳

2.16 インド、ボンベイに到着。

誰も自殺に追い込まれることのない兵庫の実現をめざして

更新日:2026年5月12日

“誰も自殺に追い込まれることのない兵庫“ の実現をめざして

令和5年(2023年)5月

兵庫県知事 齋藤元彦

一人ひとりが健康でいきいきと暮らせる社会の実現は、すべての人々の願いです。

しかし、近年は新型コロナウイルス感染症拡大や世界情勢の変化等の影響もあり、就労や生活困窮、育児や介護の悩みを抱える方の孤独・孤立、こころの健康など、様々な課題が深刻化・複雑化するとともに、これらが要因となり得る自殺者も増加傾向にあります。本県の自殺者数は、令和元(2019)年に、阪神淡路大震災以降で最少となりましたが、令和2 (2020) 年のコロナ禍以降、3年連続で増加しています。

自殺対策は、いま私たちが取り組むべき、最も重要な課題のひとつです。

兵庫県では、平成29(2017)年12月に策定した「兵庫県自殺対策計画」に基づき、市町・関係団体等と連携した取組を進めてまいりました。このたび、さらなる対策強化を図るべく、 令和4(2022)年10月に策定された国の新たな「自殺総合対策大綱」の内容を踏まえ、計画の中間見直しを行いました。

自殺は、様々な悩みが原因で心理的に追い込まれた末の死であり、自らいのちを絶たざるを得ない状況に追い込まれた方の多くは、自殺以外の選択肢が考えられない、正常な判断を行うことができない状態に陥っていると言われています。

悩みや不安を抱える方が誰かに相談できる社会、そして皆が悩みや不安を抱える方に気づき、温かく受け止められる社会づくりが求められています。

見直し後の計画では、新たに「女性の自殺対策の推進」を加えた9分野の取組を推進するとともに、重点施策分野として①相談体制の充実強化、②子ども・若者の自殺対策、③中高年層の自殺対策、④女性の自殺対策の4分野を設定しました。

また、5年後の目標として、一人ひとりがかけがえのない個人として尊重される”誰も自殺に追い込まれることのない兵庫”の実現をめざすこととしました。

誰ひとりとして取り残されることのない、希望と温かさに満ちた社会を実現し、すべての県民の皆様が、人と人とのつながりのなかで“いのち”と“こころ”を支え合える兵庫県となるよう、ともに取り組んでいきましょう。

知事記者会見(2023年5月17日(水曜日))

知事記者会見内容

1番目は「兵庫県自殺対策計画の改定(中間見直し)」です。

近年減少傾向にありましたが、令和2年から新型コロナに関する経済雇用情勢の悪化、人との接触機会が減ることによる孤立・孤独化の問題が深刻化したことの影響などを要因にして、自ら命を絶たれる方は増加傾向になっており、特に女性の方が増加しています。

女性が増加しているのは、非正規雇用労働者の割合が高く、家庭内での子育てを担うことが多いなどの影響が指摘されています。

また、新型コロナ感染症により就労が困難になり経済的な影響を受ける中高年の方々、学校生活などに悩んでいる若い世代の方も増加している傾向です。

本計画は平成30年から令和9年までの10ヵ年の計画です。昨年10月に国の大綱が改定されたこと、先ほど述べた県における傾向・状況などを踏まえて、今回計画の中間見直しを実施しました。

計画の目標は、引き続き、「誰も自殺に追い込まれることのない兵庫」の実現をめざします。令和9年までに600人以下に減少させることを一つの目標としています。1人でも自ら命を絶たれることがないようにしていくことが大前提にあります。

主な変更点は三つあります。先ほど述べました特に女性の人数が増えているため、女性への対策の推進を新たな分野として追加しました。

特に相談体制の充実強化、そして、子ども・若者、そして中高年層、女性対策の4分野を重点施策として新たに設定したものです。

また、三つ目として新たな取り組みの評価指標を設定しています。自殺する方の数を減らしていくためにも、達成が可能であり、自殺者数の減少に繋がっていく指標として、相談窓口を周知するためのLINE公式アカウントの登録者数や、研修の受講者数を新たに設定し、それぞれ令和8年度を目標にして1万4000人、5400人としています。

また、自殺と自死という表記は、私自身としてもやはり自殺という言葉が強いと思いますので、できるだけ自死という言葉に切り換えていくことも大事だと思っています。

表記には様々な意見があります。今回の計画においても、遺族の方の心理に配慮して、自死遺族と表記しています。

この表記は、他の都道府県も様々な表記の仕方がありますが、どのような表記がふさわしいかは、引き続き検討していきたいと考えています。

いずれにしても、自ら命を絶たれる方々が1人でも少なくなり、できればゼロになる社会を目指していくことが大事だと考えています。

記者:

自殺対策で2点伺います。

相談体制の充実強化では周知を図ることが大事だと思いますが、何か考えていることがあれば教えてください。

もう一点は、1人でも減らすことが、大前提だとしつつ600人以下の目標を掲げていますが、目標の根拠を教えてください。

知事:

周知は様々な方法がありますが、企業の人事担当を通じて、相談窓口があることを伝えていく。家庭にいる女性、個人事業者などに対しては県の広報やSNSなどを通じてなど、あらゆる機会を活用して発信をしていくことが大事だと思っています。

『急に具合が悪くなる』感想(殴り書き)

まともできちんとした感想を述べる人はたくさんいるので、以下はほとんど自動筆記的に断片的でまともじゃない感想を並べていく。

ネタバレ配慮しないので見ていない人は注意のこと。

過去の濱口竜介作品についての記事はこちら

原作は読んでいない。

原作は往復書簡で、設定をまったく変えてあるというのは知っていて、そこがもう濱口だな、と思った(ドライブマイカー)。

原作のエッセンスというか魂を映画化するとこうなる、というアプローチは正しいと思う(苦役列車)。

途中で全然エモくないシーンなのに突然涙があふれてきてコンタクトが外れてしまい、それ以降は画面がぼんやりしてしまった(かろうじて字幕は読めた)のがちと残念。二人のLINEのやり取りが読めなかった!

個人的に見ていて一番違和感があったのは、若い女性とはいえ末期がん患者があんな風に生活できるものなのかということ。しかし自分は末期がんの人を身近に知らず、たぶんそこは取材したうえで作られているのだろうから大丈夫なことにした。

いわゆる障碍児や認知症患者を出してきたのは、「ドライブマイカー」で問題になった当事者性批判への敢えての挑戦なのかなと思った。

たぶん最初から狙ったわけではなく結果的にそうなったということなのだろうが。

この映画に当事者性批判の要素があるのかどうかは自分にはわからない(後で介護施設で働く人によるリアリティがないという感想はネットで読んだ)。

主人公のマリー=ルーを演じたフランス人女優は配役絶妙、演技最高。最初の施設のシーンは日本人が見ればフランス映画そのものだが現地の人はどうなのかと思ったけれど、カンヌで評価されたということは違和感がなかったのだろうと思う。こういうこと(外国人の監督が別の国の物語を不自然さなく撮ること)ができるのは「硫黄島」のクリント・イーストウッドレベルの手腕が必要だと思うので、これだけで濱口の凄さが分かる(あとでパンフレットを読んで共同脚本者や現地のスタッフの力があったのを知った)。

岡田多緒は、濱口作品初めてという気がしないくらいハマっていた。個人的にはちょっと日本人離れしたハキハキぶりが若干つくりもののキャラクター性を感じさせたが、映画的には作品の立体度を高めるポジティブな効果を生み出していたと思う。

二人があっという間に親しくなるシーンもちょっとできすぎじゃないかと思ったものの安定した既視感を覚えたのは『偶然と想像』の第三話のせいだと後で気づいた。「ハッピアワー」といい、濱口監督は女性同士の友情とか関係性をよく取り上げる。本作ではもうほとんどエロティックさを感じさせるほど濃密な関係が描かれる。京都でのマッサージの場面とか、夜明けにカップラーメンをすすりながら「硬めのが好き」と言ったりとか、かなり露骨な表現が含まれていてどきりとした。

知り合って最初の、二人が歩きながら語り合う棒読みセリフの応酬こそが濱口の真骨頂。今回は日本語とフランス語の二か国語でそれをやるというアクロバチックな試みを成功させている。深夜の施設でのホワイトボードを使った「資本主義論」の場面も普通にやれば浮いてしまうところだが、脚本の巧みさでカバーしている。

もう一つの濱口作品の定番であり真骨頂といえるのが「劇中劇」。今回は長塚京三による一人芝居で、イタリアの精神病院の歴史を題材にしたオリジナル戯曲。ボーナス映像で全編見れるのだろうか。パリジャンはこういう芝居が連日満席になるほど知的レベルが高い(?)のだろうか。東京ならこうはいかないよねと思った。まあでも長塚京三なら東京でも満員になるかな。特筆すべきが黒崎煌代という若い俳優の演技。この人のことは知らなかった。映画を見ているだけだと演技とは思えないほど真に迫っていた。すでに高い評価を得ている俳優ということだが当然であろう。

フランス人キャストも全員素晴らしかった。思えば濱口作品で明らかなミスキャストを見たことがない。自分は『寝ても覚めても』は作品としては好きではないがキャスト自体は完璧であると認めざるを得ない。チョイ役も含めて、入居者全員、職員全員、驚くほどのリアリティがあり、一人一人に個性があった。

介護の現場で「人間を魂をもった存在として扱う」という崇高な理念がこの映画のまさに魂であり観る者の心を揺さぶる核心的な要素になっていて、この理念にリアリティと説得力をもたさせるためにはやはり3時間以上の時間をかけて伝えることが必要なのだと見終わってつくづくと感じた。

「人間をモノとして扱う」資本主義への批判はこのテーマとまっすぐにつながっている。マリー=ルーと真理の志はこの点で結びついている。日々の生活の中で人間の尊厳をいかに取り戻すかという現代世界の最も切実なテーマを説教臭くなく芸術的に提示する表現者として濱口竜介はまぎれもなく時代の最先端にいる。

資本主義は人間の「時間」をも収奪することにより自らを肥大化させていく。この作品を見るために映画館で3時間以上費やすことはそれ自体が資本主義リアリティに対するアンチテーゼともなっている(と同時にこの構造自体が資本主義に組み込まれているという現実も直視させる)。

観ながら、この映画は見る者に「ものを考えさせる」映画だな、と思っていた。この作品は考えることを山ほど与えてくれた。まずは原作、それから濱口監督の挙げるさまざまな資料にあたるところから始めたい。濱口竜介を教育者として心から尊敬する。

『急に具合が悪くなる』感想(ネタバレなし)

いろいろな知識や感想が入ってくる前に見たかったので、初日に見に行った。

努めて冷静な目で見るように心掛けたつもりが、案の定、涙腺を崩壊させられ困ったことになった。

内容についての詳しい感想は別に書く。

取り急ぎ、原作者を含め、この作品に携わったすべての人々に対して、この上もない映画体験をさせてくれたことに感謝したい。

鑑賞後にこんなにパンフレットが読みたくなる作品はそうはない。早速購入して、これから読む。

今回も濱口竜介監督には素直にシャッポを脱ぐ。

こんなに素晴らしい映画をつくってくれたことに感謝します。

濱口監督はやはり日本映画の希望の光だと思います。