War Is Over

 if you want it

国会図書館デジタルコレクション

昨日に引き続き、国会図書館デジタルコレクションで読める絶版本。詳しい人ならいくらでも探せそう。学術機関関係者ではない自分みたいな人にとっては本当にありがたい。

浅見淵『現代作家研究』『昭和文壇側面史』

尾崎一雄作品集第1巻~第10巻

外村繁『阿佐ヶ谷日記』

川崎長太郎, 上林暁, 渋川驍 編『宇野浩二回想』

堀木克三『暮れゆく公園』西村賢太の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」にレア本としての言及がある)

島田清次郎『地上 第1部 第2部』『我れ世に敗れたり』ほか

勝目梓『告白』ほか(「文芸首都」に純文学作品を書いていたころの小説)

川上宗薫『夏の末』筒井康隆が読んで眠れなくなったとwiki情報)

ロッキング・オン編集部『大東京トイレ事情』(懐かしい)

清田益章『私とゼネフとの出会い』(「心霊科学協会」でしかできないディープな話)

久松真一『東洋的無』

伊福部隆彦老子眼蔵』『正法眼蔵新講』ほか

谷口正治『皇道霊学講話』(1920)

つのだじろう『私の心霊研究』(雑誌「心霊研究」)

雑誌『座右宝』(1946~1948)武者小路と志賀が参加した美術文芸雑誌

雑誌『広告批評(1979~2000)(サブカル聖典

雑誌『小説club』(1969~1999、桃園書房)(官能小説が読める唯一の資料?)

雑誌『現代の眼』(1962~1983、現代評論社)(「噂の真相」の前身?)

雑誌『文芸戦線』(1924~1932)(アジテーションが凄い)

雑誌『文芸首都(1944~1970)(勝目梓中上健次らが参加。佐藤愛子が「終りの時」で水上勉川上宗薫のことを書いた)

『タレント名鑑』(1962.1963)(住所が載ってる)

国会図書館革命

本の雑誌西村賢太追悼号の「北町貫多クロニクル」を見ながら、以前自分で作った時系列メモを修正する。手元にすべての本がないので、よく分からないところはそのままにする。

砂川文次「小隊」(文春文庫)を読了。三篇収録されているが、発表順に「市街戦」「戦場のレビヤタン」「小隊」の順番で読む。

確かな文章力に加えて、元自衛官の知識と経験から書き込まれる細部の詳細さが小説世界のリアリティーを高めていて、引き込まれるように読んだ。

最近のインタビューで今のウクライナ戦争についてこう語っていて共感した。

LGBTQとか気候変動とか、解決しなきゃいけない新しい問題もある訳ですが、それと別にもうすでに解決、あるいは克服したって勝手に勘違いしていた過去の問題。そういった今まで無視していたことが、今回の戦争で一気に噴出した、って気がします。

芥川賞ブラックボックスもよかったし、今注目している作家の一人だ。

 

国立国会図書館は、「国立国会図書館のデジタル化資料の個人送信に関する合意文書」(令和3年12月3日)に基づき、「個人向けデジタル化資料送信サービス」(略称:個人送信)を令和4年5月19日から新たに開始します。

これは、令和3年6月2日に著作権法の一部を改正する法律 (令和3年法律第52号)が公布されたことによるものです。この改正により、国立国会図書館はデジタル化した資料のうち絶版等資料をインターネット経由で個人に送信できるようになりました。法改正の背景には、デジタル化・ネットワーク化への対応とともに、コロナ禍により、当館や公共図書館大学図書館等に来館せずに利用できるデジタル化資料へのニーズが、研究者・学生等の個人から高まったことがあります。

というわけで、本日から、国会図書館がデジタル化した資料で、絶版などにより入手困難なものがオンラインで閲覧できることになったという。

これまでは図書館や学術機関に限定していたサービスを、一般の利用登録者すべてに利用可能にしたということだ。

早速利用。すでに本登録はしてあるので、国会図書館のトップページからログインして、利用登録情報の画面に行って、利用規約に同意するのだが、「同意する」のところをクリックしても反応しない。何度やってもできず、「不同意」か「保留」をクリックすると、画面が変わって「不同意」したことにされる。

こっちは同意することに何の異存もないのだから、さっさと同意させてくれよ、と叫び声を上げそうになったが、一回ログアウトして再度ログインして利用規約を最後までスクロールしてから「同意する」が青になったのをクリックしたらできた。何度もスクロールして画面を弄っていたのがいけなかったようだ。

トップページでログインしてから国立国会図書館デジタルオンラインのページに行き、手始めに小島信夫を検索したら、「悪友記」という本がヒットして、小島信夫庄野潤三の交友についてお互いの貴重な文章を読むことができた。

これからさらに、どんな貴重な資料が読めるのか、宝探しのようで、楽しみで仕方がない。

・・・

ちょっと見ただけでも貴重な資料の宝庫である。特に昭和初期から戦後文学の私小説好きにとっては宝の山といえるのではないか。図書館に行く手間が省けるし、貸出と返却の手間もない。

田中英光全集も読めるし、野口冨士男徳田秋声伝」も読める。小島信夫抱擁家族ノート」も読める。マーナ―ポエットの作品も検索すればけっこう出てきそうだ。これは感動的な出来事である。

岡田睦「死神」(季刊芸術、1978年4月)も出てきた。

能島廉「駒込蓬莱町 : 能島廉遺作集」(「競輪必勝法」収録)も読める。あの古書収集家のスペシャリスト・西村賢太が「欲しいと思っているけど一回も見たことがない」と言った本である(ちなみに坪内祐三が二冊持っていて、entaxiで復刻したらしい)。

団鬼六の記事で有名な近代将棋のバックナンバーも読める。ということは、あの美少女棋士の元祖・林葉直子の連載していた「将棋エアロビクス」も読めてしまうノダ!伝説の鬼真剣師小池重明の連載「将棋と酒」も読める…

戦前の映画雑誌(「映画情報」など)のグラビアが非常にいい状態で保存されているのが見れるのもうれしい。

山中貞雄の「河内山宗俊」のシナリオも読める!

あっちの話(2)

今朝NHK・BSのワールドニュースで、アメリカの議会でUFO問題が真剣に討議されたと報じられていた(まったくどうでもいい話だが、僕はこの番組の高橋彩というキャスターを見るのを、かつて国谷裕子さんを見ていたように朝の楽しみにしている)。僕はアメリカ政府(の一部)はUFOについて多くのことを知っているが隠蔽していると思っていたし今もそう勘ぐっている。ディスクロージャー・プロジェクトといってアメリカでUFO機密情報を公開せよという運動があって、その関係の資料を翻訳したこともある。最近は、永久に隠し続けることはできないので今から何十年かかけて徐々に大衆がパニックにならないように慎重に情報を公開していく方針に変わった、という説もあるようだ。ユリ・ゲラーがそんなことを語っていた。
世間ではなぜかUFOと超能力とスピリチュアル(精神世界)が同じようなものとしてジャンル分けされている。その共通点は、近代科学では解明できないものというだけで、なぜ一緒にされるのかよく分からない。幽霊やお化けの話と同じような扱いをされている。だがそのことには一理ある。

大抵の人は、ある人物が精神世界とかスピリチュアルとかに興味を持っていると聞けば、関わりを避けようとして距離を置くだろう。例外的な人は意気投合したり心酔するなどするだろう。反発し毛嫌いし憎悪する人もいるだろう。僕はある時期まで「精神世界」に相当なところまでハマったという自覚があるが、結局人生の多くの時間を無駄にしただけだったと振り返っている人間である。とはいえ、その間に何か別のことをしていればよかったかというと何も思いつかない。
今の僕は、ある人物が精神世界とかスピリチュアルとかに興味を持ち、かなりの知識を持っていると聞けば、反発や毛嫌いはしないが、関わりを避けようとして距離を置く。そういう人に関わると九分九厘ロクなことにならないのを知っているからだ。


人が死んだ時「今ごろは天国で先に行った人たちと会っているだろう」などと他人や自分を慰めるつもりで言うことがある。僕自身も言ったことがある。ほとんどの人は一時の慰めのつもりだと分かって言うのだが、スピリチュアルを信じている人は本気で言っている。
僕は若い頃にスウェーデンボルグなどの本を読みまくったせいで、死後の生はあるとしか思えなくなった。しかし「死ねばすべては無だ」と信じている人を否定するつもりはない。死後の世界を信じることは、生きている私たちにとって害がなければ、別に構わないが、来世の救済を信じて自爆テロを行う殉教者を見ればわかる通り、実際には害もある。「死ねばすべては無だ」と信じている人間よりも、来世を信じている人間の方がはるかに危険な存在になりうる。
似たようなことは輪廻とかカルマの思想にもある。美貌や幸運に恵まれている人に対して「前世で徳を積んだからだろう」などと安易に言うのは、逆に言えば身体障碍や虐待などに苦しむ人は「前世で悪いことをしたからだ」ということになり、とてつもない差別思想につながる。インドのカースト制度の悲劇は、こうした輪廻やカルマという信仰と切り離すことができない。マルクスが「宗教は阿片だ」といって、こうした迷信から人類を解放しようとしたのは必要なことだったと思う。

私小説とケンドリックとトール

もう日本は経済的に大きく浮上することはなく、ジリ貧に陥る一方と思われるので、これからは経済的な豊かさ以外のことに主な喜びを見出していくしかない。そんな時代にあって、貧困や苦しみの中で何気ない日常生活に生きる歓びを見出すことの価値を教えてくれる私小説の存在意義は大きい。とりわけ高齢者の書く私小説が増えていくのは必然であり望ましいことだ。
保坂和志の短編小説に文字通り「生きる歓び」というのがあるが、これはいい小説だと思う。あっさり書かれているように思えるから自分でも書けるんじゃないかと思って書こうとしても、当たり前のことだが書けない。それでも読んでいるだけでも面白い。
保坂和志小島信夫に傾倒していて、小島の晩年のスタイルを参考にして自分の中に取り入れていると思うのだが、その文体は言ってみれば「だらしなさ」と紙一重なので、失敗するとただみっともないだけの文章になってしまう。だがそのみっともなさに独特の味があるということもある。どっちにせよ、このスタイルがどんどん発展していけばいいと思う。

 

ケンドリック・ラマ―Kendrick Lammarの新作Mr. Morale & The Big Steppersには、ドイツ出身のスピリチュアル教師エックハルト・トールEckhart Tolleの講話がサンプリングされていて、ちょっとした話題になっているようだ。
トールの本は以前結構読んだ。The Power of Nowという主著は、邦訳されて「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」という邦題で台無しにされているが、中身はなかなかいい本である(邦訳で読んでもダメだが)。A New Earthという本もあって、これがオプラ・ウィンフリーというアメリカの黒柳徹子のような人に紹介されブームのようになった。
彼のいいところは、普通この手の〈教師〉は一冊売れたら似たような本を水増しして何十冊も乱発するのが常なのに、ほとんどこの二冊以外は書いていないというところだ。実際、この二冊に書かれていることに付け加えることは何もない。まあ印税目当てに本を次から次に出さなくてもセミナーや講演会(有料ウェビナー)などで十分に稼げるのだろう。
僕はトールの言うことは、この分野ではまだ真っ当なほうだと思っているが(ただし彼の後にいわゆる〈ノン・デュアリティ〉系の教えが無数に出てきてその内実はもう陳腐化している)、例外なく〈教師〉の誰もがそうであるように精神的指導者(グル)として祭り上げられる甘さがあり、そこはきっぱり拒絶する。ケンドリックがトールを個人的なメンターとして頼っているのなら、かつてビートルズマハリシ・マヘシ・ヨギに頼ったのと同じで、それ自体は特段非難すべきことではない。
何にしても、Mr. Morale & The Big Steppersというアルバムは全体的に内向的でアンビエントで心地いいのでこの数日間ずっと聴き続けている。アルバムの制作陣の一人Duval Timothyの作品も派生して愛聴盤になりそうだ。

"Help" Duval Timothy

とりとめのないぼやき

朝検査結果を聴きに行った妻から九時半に携帯に電話が来て、子宮内膜増殖で悪性ではなかったので、経過観察を続けていくという。貧血の薬(鉄)とホルモンバランスの薬を飲み続ける。今日は内科のクリニックで高血圧の薬をもらいに行くという。休みを取っているが職場にも仕事に行くそうだ。とりあえず悪性でなくてよかった。

上島竜兵のことで多くの人々が異様なほどショックを受けている。同業者のそれは分かるが、菊地成孔も相当に堪えたと書いていて、世代的なこともあるのかもしれない。六十一歳ということで、還暦前後の人にとっては身につまされるものがあるのかもしれない。渡辺裕之は六十六歳。僕の恩師の先生は五十九歳だった。
僕は今回の件ではそれほどのダメージは受けなかったが、あと十年くらいをどう生きていくかについて考えさせられた。二十代のときは未来に期待し、三十代では違う仕事をすることに期待し、四十代は独立することに期待をかけていたが、五十代では特に期待するものがない。気が向いた私小説などを読みながら惰性のような毎日を送っている。このままメンタルも健康状態もも生活水準も下降していくのではないかとの予感もある。そうなれば数年後にはやばいことになっている可能性も高い。

水道橋博士が「れいわ新選組」から参院選に立候補すると話題になっている。彼は五十九歳。芸能人がこのくらいの歳になると政界進出したくなるものだろうか。作家でも今東光やら石原慎太郎やら野坂昭如やらがいる。タレントでは横山ノックや青島幸夫や立川談志や枚挙に暇がない。政治家になったところで派閥政治の中に埋もれてしまい何ができるわけでもない。石原が最も成功した例だろうが、ネガティブな意味での成功であった。奴の悪政のツケを都民も都庁職員も未だに払わされている。

いわゆるリベラルな人たちには山本太郎を救世主のように考えている人が多いようだが、過大評価しすぎだと思う。前回の都知事選で落選した後に「小池百合子は強かった!」と笑いながら記者会見しているのを見て、この程度の奴か、と思った。総理大臣になって消費税を廃止して(もちろんインボイスも廃止)国民全員に一律一千万円給付くらいする(またはベーシック・インカム導入及び医療費教育費無料)ことができれば初めて評価する。
小沢一郎鳩山由紀夫が政権を取って何もできずに自民党に権力を奪われたことでもう日本の政治に期待するのを止めた。遠くは日本新党細川政権があっさりと撃沈した時点でそう思った。かといって外山恒一みたいな考え方にもならない。要するに政治などというものには何の関心もないし一切関わりたくない。その結果として社会がどんどんダメになっていって「取り返しのつかないことになる」と言われても、「もうとっくに取り返しのつかないことになっている」のだから何とも思わない。「このままだと取り返しのつかないことになる」と言う連中は考えが悠長すぎる。
よく政治の不祥事などについてツイッターなどで「ほかの国なら暴動が起きるレベル」などという書き込みを見るが、あれは何なのだろうか。暴動を起こすべきだ(が自分はちょっと指を動かす以上のことはするつもりはない)ということだろうか。この手の「つぶやき」はSNSが体のいいガス抜き装置として利用されているという事実を立証する以外の意味を持たない。

 

日乗鬼語

近所の図書館で「風来鬼語 西村賢太対談集3」「一私小説書きの日乗 不屈の章」を借りる。

藤野可織との対談の中で、「暗渠の宿」の中で三島賞がらみで現存のある老大家をディスってる部分があって、その原稿を見た矢野編集長に削除するよう示唆されたが、「僕はここを書きたくてこの一篇を組み立てたんです」と言って受け入れなかったと書いている。

手元の文庫本をひっくり返してみたがどこのことを言っているのかしばらく見つからなかったが、勝又浩との対談でまともに「筒井康隆は大嫌いだ」と言っていて分かった。

勝又もそれに同調するようなことを言って、小説を人間のものではなくゲームストーリーにしてしまったといって批判している。

この部分を読んで、いわゆる純文学(芸術作品)とそうではないもの(通俗小説、エンターテイメント)との違いは何かについて考えた。

これは吉本隆明の受け売りみたいなものだが、後者は「既知のもの」を素材に、その組み合わせによって創造されるものであり、したがって、人間の意識を拡大するような新しいものや従来にない認識をもたらすようなものではない。これに対して前者は、既知のものを素材にしながら、それを超えたものを志向し、人間の意識に新しい何かをもたらすようなものではないか。

吉本隆明はエンタメの本質を「既存の内部」という言い方で表現している(「空虚としての主題」)。小島信夫は先に言う「新しい何か」を「他者」と呼んでいる(吉本隆明との対話)。

さらに言えば、西村賢太の小説は、実はエンタメ私小説ではないか、と思った。これは本人も対談の中で認めている。

純文学のほうが上でエンタメは劣っている、という話ではない。純文学でも面白くないものはダメだし、エンタメでも面白いものはよい、と思う。

そして西村賢太の小説は間違いなく面白い。

ちなみに、この対談集は、Amazonでも在庫なしになって買うことができず、読書メーターで検索しても出てこない。筒井康隆への言及があるせいだろうか、などと勘ぐってしまった。

文学とは縋りつくもの

本の雑誌」2022年6月号に掲載されている「藤澤清全集内容見本」を眺めて、改めて賢太の藤沢清造に対する尋常ならざる思いの深さに圧倒された。

内容見本に寄せた文章(「藤澤清造全集』編集にあたって)の中で「この全集さえ完結出来たら、もう、あとはいつ死んでもいい。全力で編集にあたらせていただく」と賢太は書いているが、この内容見本では既に全集の全体像と具体的な中身が詳細に明らかにされ、あとは刊行を待つのみという状態になっている(内容見本とはそういうものなのかもしれないが)。

掲載されている「略年譜」も「略」どころか詳細きわまる内容で、藤澤の生前の肖像写真もふんだんに掲載、作家の藤本義一を含む七名もの「推薦の言葉」が並べられており、この内容見本そのものが、藤澤清造という不遇な作家の復権に寄与すべき第一級の資料となっている。

この「凝りに凝った」内容見本に目を通せば、『小銭をかぞえる』をはじめとする私小説の中で出版費用の工面に悪戦苦闘する「私(北町貫多)」の心情が、一層リアルなものとして感じられること請け合いである。

最後のページに、第1回配本が2001年3月上旬、第2回配本が2001年9月上旬と謳われ、現物のイメージ写真も掲載されている。さらに西村賢太著『藤澤清造伝 上・下 ―どうで死ぬ身の一踊り』(上巻270頁、予価3800円)の近刊も予告されている。

周知のとおり、この全集は編集人たる西村賢太の死により未刊のままとなった。おそらく将来にも刊行されることはないだろう。賢太以上の情熱と執念をもってこの出版に取り組む研究者(在野も含め)が存在するとは思えないからである。

賢太の生前に未刊となった理由は、当初は資金不足が大きな理由だったが、芥川賞を受賞し、人気作家となって以降は、自らの作家活動のために全集のための時間とエネルギーを費やせなくなったことが第一の理由だったろう。

全集の代わりにはなりえないにせよ、賢太の作家としてのネームバリューのおかげで、藤澤清造の作品集が何冊も文庫化された。これをもって没後弟子としての責務は果たしたといえるのではないか。そして本人も内心そう思っていたのではないだろうか。

本の雑誌」の特集の中でも、印象に残ったエピソードは藤澤清造にまつわるものが多い。自分の本ではそこまでこだわらないのに藤澤清造短編集では色校に納得がいかず九校までやり直させたとか、七尾での文学散歩に参加した際に暑さの中でも決して上着とネクタイを取ろうとしなかったとか、清造忌では座布団にも座らずびしっと正座してお経を三十分以上ちゃんと聞いていたとか。

極めつけは、賢太の本の多くの装画を手掛けたイラストレータ信濃八太郎氏に対して語った次の言葉だ。

師匠たって、こっちは勝手に没後弟子名乗っているだけだから。端から見りゃただの戯言です。でもその戯言にすがりつかなきゃ生きていけねえ人間もいるってことです

信濃氏は、この三月、七尾に墓参りしたとき、賢太の建てた生前墓が師の藤澤清造の墓より幾分低く作られていたことに気付いたという。

西村賢太をして、そこまで藤澤清造に、そして〈文学〉に縋りつかせたものとは、一体何なのか。

西村賢太が三十年間通い続け、亡くなった日の直前にも電話で話したという朝日書林の荒川義雄が、興味深い証言を残している。

賢太が自費出版していた「田中英光私研究」に載せた小説を、文学研究家・保昌正夫が高く評価した。それで荒川が保昌に賢太を紹介すると、賢太は企画展に参加させてほしいと頼み、断られてひどく落ち込んだという。

そのとき、保昌正夫は荒川に、「あれは放っておくと堕ちるところまで堕ちる」、誰か見ている人がいないとだめだ、と言った。それで荒川が賢太の面倒を見るようになったのだという。同人「煉瓦」を紹介したのも荒川だった。

保昌正夫もまた、〈文学〉に魅入られた人物であった。『牧野英二』『川崎長太郎抄』『和田芳恵抄』『瀧井孝作抄』などの著書があり、最も有名なのは、『定本 横光利一全集』で、「個人全集」としては過去に類を見ない大編纂事業として称賛され、編集の緻密さにおいても最大級の評価を得たものだという(下記ブログ記事参照)。

保昌正夫は、共に〈文学〉の深淵を覗き込んだ者として、ただ一度の邂逅で西村賢太という人間の本質を見抜いたのだ。

このエピソードは、賢太の小説には決して書かれない貴重なものだ(5月25日に発売される「雨滴は続く」にはこのあたりのことは書かれているのだろうか。是非読んでチェックしたいと思う)。