INSTANT KARMA

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昭和九九年

図書館で『再起動する批評 ゲンロン批評再生塾第一期全記録』(朝日新聞出版、2017)という本を借りた。

この批評塾のテーマが「昭和九〇年代」というのを読んだ時、昭和九〇年代を西暦に直せば2015年~2024年ということになり、今年は昭和九〇年代の終わり、〈昭和九九年〉に当たるということに気づいた。来年は記念すべき昭和一〇〇年にあたる。

自分が生まれたのは昭和四五年(1970年)であり、大阪万博の年だ。

そして昭和一〇〇年にも大阪万博がある。当然狙ってのことと思われるのだが、今まで全然気づいていなかった。

だがこの二つの万博にはなんと大きな違いがあることか。

(これは昭和三九年(1964年)と昭和九五年(2020年。だが実際には翌年)の東京オリンピックの違いにも共通するが、オリンピックはもう終わってしまった。アレをまともに総括しようという人は誰もいないようだ)

「昭和」のイメージと言えばいまや「パワハラ、セクハラ、人権感覚の欠如」ということになっていて、その評価は地に堕ちた感があるが、「人類の進歩と調和」というテーマを掲げた「昭和」の大阪万博には輝きとエネルギーの充溢したポジティブなイメージを感じてしまうのは、昭和生まれのオッサンの贔屓目だろうか。いやそうではないと信じたい。だとすれば、なぜ昭和四五年の万博は輝いていて、昭和一〇〇年の万博はこれほどぶざまで醜いものになってしまった(まだ始まってもいないが、きっとそうなる以外の未来が見えない)のだろうか――

・・・な~んてことをしっかり考えて説得力のある文章に仕上げるのが「批評」なのだろう。

だがこの『再起動する批評』という本を読んでつくづく思うのは、自分は批評を読むことや書くことに興味があるのではなくて、東浩紀という実存に興味があるということだ。

それは小林秀雄にしても吉本隆明にしても同じで、彼らが書く文章(批評)の中に彼らの〈実存〉を嗅ぎ取るからこそ読む気になるので、東にとっての柄谷行人もそういうことだったんだろう(ぼくは柄谷の本は読んだことがない、あるいは読んだとしても何を読んだか完全に忘れてしまった)。

メチャクチャなことを言えば、昭和四五年の万博にも〈実存〉を感じる。昭和100年の万博には、薄っぺらな利害関係の集合しか感じない。そこにはムンムンするような欲望の匂いすら欠けている。

ところで〈実存〉って何だよ?

・・・な~んてことをしっかり考えて説得力のある文章に仕上げるのが「批評」なのだろうね。