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レーニンが愛した女

ウラジミール・イリイッチ・レーニン(1870〜1924)と言えば、鋼鉄のような意志をもって革命事業を遂行し、革命に殉じた人物という印象が一般的だと思うが、ソ連崩壊後、彼がイネッサ・アルマンドという女性に充てた手紙と彼女の返信が公開され、レーニンがこの女性を深く愛しており、彼の生活に美と彩りを添えていたことが明らかになった。

イネッサ・アルマンドは、レーニンより4つ年下で、2人が出会ったときにはレーニンは39歳、イネッサは35歳だった。

当時レーニンは、パリで妻のクルプスカヤと二人でまるで棺桶の中にいるような陰鬱で味気ない亡命生活を送っていた。

イネッサは、19歳で実業家と結婚し、5人の子供を設けたが、夫の弟と駆け落ちし、その男性を病で失った直後であった。彼女はすでにマルクス主義に目覚めており、ボルシェビキの熱心なメンバーとなっていた。

イネッサがパリのロシア亡命者グループに加わると、たちまち崇拝者たちが彼女を取り囲んだ。だが彼女は芸術と自由恋愛の信奉者である一方で献身的な革命家の素質もあった。彼女は革命グループの指導者レーニンを遠巻きに畏れながら見つめていたが、彼女が開設した青年たちのための教育施設にレーニンが講師としてやって来るのを手伝ったり、彼の論文のフランス語への翻訳を手伝ったりしているうちに、徐々に親しみのある関係になっていった。

イネッサの敬意は好意からやがて恋に代わっていたが、レーニンはまだイネッサのことを見込みのある同志としてしか見ていなかった。彼はイネッサをある秘密活動のためロシアに派遣するが、それは当然ながら大きな危険を伴うものだった。案の定イネッサはセントペテルスブルグで逮捕・投獄され、1年余りで脱獄し、ヨーロッパへと戻ってきた。

スイスで生活していたレーニンたちのもとにイネッサが帰還したことは、レーニンにとって嬉しい驚きであった。ここでレーニンとイネッサの親密度は一気に増すことになったが、奇妙なことに、イネッサはレーニンと妻クルプスカヤとその母親とも大変親しく交際した。

レーニンとクルプスカヤとイネッサはしばしば三人で自然の中を散策し、さまざまなことを語り合った。レーニンは、歩きながらレールモントフ詩編を暗唱し、彼がベートーヴェンの音楽をどんなに愛しているかについてイネッサに熱弁した。

イネッサは卓越したピアニストでもあった。彼女は革命家の道を選ばなければヨーロッパで一流の音楽家になることもできただろう。彼女がスイスの家でベートーヴェンソナタを弾くのをBGMにしながら、レーニンは猛烈な勢いで革命論文を執筆した。レーニンは絶え間なくイネッサにベートーヴェンの曲をリクエストし、自分の愛する音楽をこれほど身近に楽しめる幸運に感激した。

クルプスカヤは後年、この時期のことを、イネッサについてたいへん好意的な思い出と共に回想しているが、その真意は分からない。ただ確かなことは、クルプスカヤは、イネッサが1920年に死に、レーニンがその4年後に死んだ後も、イネッサの子供たちを自分の子供のように庇護し続けたことである。

1917年4月、レーニンがドイツからロシアに送られた「封印列車」には、イネッサとその子供たちも同乗していた。その年の10月にレーニンボルシェビキはロシアの政権を奪取した。

革命後ロシアの動乱の中で、重責を担い、オーバーワークに疲弊したイネッサは、レーニンの勧めでロシア郊外に休養に出かける。だが、そこでコレラに罹患して死んでしまう。

イネッサの死を知らされたレーニンは、休養を勧めた地が危険でイネッサの衰弱した肉体が耐えられる場所ではなかったことを悔いたが、後の祭りであった。

イネッサの葬儀に臨むレーニンは、クルプスカヤに支えられてやっと立っている状態であり、憔悴しきっていた。それ以来彼は魂が抜けたようになってしまい、脳梗塞の発作に倒れ、言葉を話すことができなくなり、そのまま死んだ。

イネッサは革命の純粋な大義に殉じた高貴な魂の一人であった。彼女のような無数の人々によって革命は成し遂げられたのであり、レーニンは彼らの力を結集し、体現するための焦点であった。

後の歴史が示す通り、その後の革命の歴史は粛清と流血と虐殺と無数の無辜の罪からなる人類史上最悪の悲劇となった。

だがその出発点には、このような人間の血の通ったドラマがあったのである。

イネッサ・アルマンドの生涯とその悲劇は、後世に語り継ぐべき物語の素材を多く提供している。