INSTANT KARMA

We All Shine On

dazai in disco

昨夜の「ロンハ―」について、昨日はあまりにも舌足らずだったので、改めて感想を。

 

いつからか、僕は鳥居みゆきを見て、「笑う」ということがなくなった。

僕にとって鳥居みゆきが、「笑い」の創造者だったのは、振りかえってみればかなり短い期間、具体的に言えば、『ハイタッチ♯3』までだったような気がする。

R1グランプリ決勝進出の頃には、既に彼女を見るときにはワクワク感よりも「いたたまれなさ」の方が先立つようになっていた。

 

太宰治のような繊細な自意識を抱えた「道化の華」が、まるで場違いな、サーカスと血を求める大衆の待ち構える巨大コロシアムに放り込まれたような印象。自己の内的世界と外的現実との違和感を、敢えてデフォルメされた異常性としてさらけ出すことによって、自らの孤独と疎外感を再確認しているかような佇まい。

「友達ができなくて、友達が欲しくてお笑いを志した」という特殊な動機は、多少の誇張はあるにせよ、決して本質的に嘘ではないと今でも思っている。

そんないたたまれなさを見る者(僕だけかもしれないが)に強いながら、彼女はそれまでの地下芸人活動から見事に脱却し、わずか半年足らずの間に、DVDに単独ライブという形で、誰にも否定できない具体的な実績も残した。

しかし、彼女の心の中の空洞はまだ満たされていないような気がする。その妄想が僕をいたたまれなくさせる。

鳥居みゆきが本当に満たされるのは、ありのままの自分が大衆に受け入れられた時だ。

しかしそんなことがありえるのかと僕は自問自答を繰り返し、彼女はありのままの自分をさらけ出すことを拒み続けている。

彼女が「期待される鳥居みゆき像」を演じている間は、僕のこのいたたまれなさは続くだろう。

しかしそれが悪いことだとは思わない。もしかすると、安心して見続けるのを許さないことが実は鳥居みゆきの最大の魅力かもしれないのだから。