INSTANT KARMA

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Le mal n'existe pas

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この動画の1:16:47~ 

完全に同意。

僕なんかルソーとか尊敬してるわけだけど 、ルソーとか本当すごい周りの人に馬鹿にされててさあ・・・


ルソーってめっちゃ実力あるんだよ。本も売れてるし、すごいカリスマなわけ当時のパリで。でもさサロンとかからめちゃめちゃ馬鹿にされてんだよね。人格破綻だとか言われてさ。実際人格も破綻してんだよ。


でもさ書いてるものめっちゃ魅力的なんだよね。でも周りの人すごい馬鹿にしててさ。でも結果どうだった? あの時代で残ったのはルソーなんだよね。破綻してるけどルソーなんだよ 。ああいうのが本物って思うわけ。

 

だから僕はこの本(「訂正可能性の哲学」)で最後ルソーとかドストエフスキーとかって言ってるけど、僕ルソーとかドストエフスキーって本当尊敬してるわけ。


彼らの欠陥というのはすごいあるんですよ。人間的な欠陥だけなくて思想的な欠陥もめちゃめちゃある。


例えばドストエフスキーってめっちゃネトウヨだからね。皆さんの中にネトウヨがいたら、ドストエフスキーネトウヨ文書を読むとすごいアガると思うよ。


ドストエフキーは 今風に言うとめっちゃZだし。あの当時トルコとロシアが戦争してるんだけど、「コンスタンチノープルは今すぐロシアが占領するべし」みたいな文章とか書いて当時のネトウヨ軍団から絶賛されたりしてる 。


ドストエフスキーはすごいヤバい奴なんですよ。彼は小説すごいいいんだけど政治的にはめちゃめちゃヤバいです。


だからドストエフスキーの欠陥みたいなものを言おうと思ったら何とでも言えるんですよ。でもそれも知ってるんだけどでもやっぱいいんだな・・・


すごいんだよね。で、そういう凄さっていうのを持ってる人ってねやっぱ僕すごい尊敬しちゃうね。そういう人間を尊敬しちゃうってのが僕の欠陥なのかもしれないが・・・

 

まあそういうこと考えながら生きてるんですよ 。


ドストエフスキーは本当に素晴らしい思想家だよ。人間というものについて彼は小説家というより僕は思想家だと思ってる 。人間とは何かってことをすごい深く洞察してる。

でも深く洞察してるが故にヤバいところがあるんだよねやっぱね。

 
でも一応言っとくと、そういう政治的なヤバさはともかく地下室の手記っていうのは一回騙されて読んだ方がいいよ。

 

どういうことかって言うと、今のネット社会的に言うと、要は40歳ぐらいになって遺産が入ったんで仕事やらなくなって、自分の家の半地下の自室に籠って「俺マジ世界全体が嫌なんだけど」みたいなことを ウザウザウザなんかブログに書いてる男みたいな話なんで。めっちゃ現代的です。

 

こういう風に言うと、それは言い過ぎだろうと思うかもしれないけど、読めばわかる。


とにかく「ユートピアが来るとしても絶対俺はユートピアに入らない。なぜならばユートピアっていう響きが気に入らない」みたいなわけわかんないこととかを延々と書いてて、しかも途中から「ところで俺はギリギリ限界まで来てるわけだが」みたいな。

 

限界まで来てるわけだからこんなことばっかり書いててもしょうがないから今から20年ぐらい前の今の俺を限界までもたらしているののきっかけは20年前のあの事件で、その事件の話をしようって言って第2部が始まるんだけど、この「20年前のあの事件」ってのがすっげえしょぼい事件なのよ。

 

まあ一言で言うと、20代の頃にいろいろ仲間とつるんでて、ちょっとしたことで見栄はって嘘つくんだよね。でもその嘘ついたことを糊塗しようと思ってどんどん嘘がでっかくなってって結局すごい大喧嘩して決闘だみたいなこと言って。でも決闘する勇気もなくて、夜の街に出るわけよ。でそしてまあ、これは今だとなんか性搾取みたいなことになるけど、売春婦を買うんだよね。で、事を致した後に今度はその女性に向かってめっちゃ説教し始めるわけ。「君は何で売春とかしてんだ、それって良くないんじゃないの」みたいな。で、そういう説教した自分とかも嫌になって全てが嫌になるみたいな、もう何の出口もない話なんですよね。これが第2部。

 

全てがね、もう全てが限界なんですよ。でこの全てが限界っていうのがあの19 世紀の真ん中ぐらいに書かれてるっていうことを21世紀のね、限界に来てる人たちも知るべきだと思うんですよね。つまり要はお前の限界っていうのは昔からあるんだよってことです。国籍を超えて。
 
本当にやばいんですよドストエフスキー先生は。あのヤバさはね、かなりやばい。でそれが世界文学の名作と言われてることもやばい。みんな地下室の手記なんか、すごく偉い・・・ドストエフスキーって髭とかはえてるじゃないですか。なんか「人類とは」みたいなこと考えているすごい深い男が「地下室の手記」みたいな感じですげえいいもの書いたと思ってるでしょ。それが罠で、そうじゃないんですよ。読むとわかるんですけど、あれはTwitter文学なんです。限界まで来てるんです。

それが実はドストエフスキーの転換点なんだけどね。ドストエフスキーがある飛躍をする時の転換点が地下室の手記なんだけど、だから確かにあれ転換点に なってるっていうか、ギリギリまで来ちゃったんだねドストエフスキー・・・

 

いやほんとね、やっぱり文学ってみんな、今の文学ってそういう意味で言うとなんかそういう限界まで来てる文学っていうのがあんまり作られてないのかもしれないね。だから昔の世界文学って言われてるものの中でも、うまく拾っていくとこれ絶対Twitterみたいな奴らって結構いるのよ。

 

まあルソーのそういうエピソードもいっぱいあるんだけど、まあ何回もしゃべってるからしゃべんないけど。とにかく限界、限界なんですよ。人間として限界まで来てる。やっぱね限界がね大事です。限界。

 

僕はこういう人間でね、まあドストエフスキーとかルソーとか好きなことからもわかる通り、限界まで来てる人間なわけですよ。で、限界まで来てるっていうのは格好悪い。そして人からも馬鹿にされます。僕はそのことをよくわかってる。

 

僕だって52歳ですよ。こんな限界感とか出したくないですよ。もっとゆったりと構えてですね、「まあ友の会最近少ないのまあしょうがないんじゃない」とか言っていたいわけ。


でもそうはいかないんだよ。そうはいかないのがなんだかもわからないけど、そうはいかないわけで、そういう僕を面白いと思ったらゲンロンに入ってください。

 

東浩紀の引用はここまでで、こっからは個人的な回想。

 

高校三年生のとき、受験も一段落して、たしか家族(両親)と一緒に行きつけのスーパー(SEIYU)の本屋を覗いたとき、偶然手に取ったのが「地下室の手記」だった。

ドストエフスキーの中では一番薄い本で、読みやすそうだったので買った。

その薄い本から受けたインパクトにより、その後一年間は明けても暮れても寝ても覚めてもドストエフスキイで過ごすことになった。

例えとしては、西村賢太田中英光全集第七巻に出会った時の衝撃に近いものがあったのではないかと思う。

西村賢太の体験(「やまいだれの歌」)を引用させてもらう。

こんなのが純文学であってもいいのか、と思った。そしてこんな純文学がこの世にはあったのかと、その余りにも共感できる内容の面白さに圧倒されていた。それが、わけの分からぬ興奮を激しく誘っていた。

ドストエフスキーを読んでみるか、と思ったのは、高橋源一郎が「新潮文庫の100冊」に寄せていた「唯一にして無二 VSドストエフスキー」 という文章を読んだせいである。

この一点をもって、高橋源一郎には一生感謝している。