テレビ局関係者8人に聞きました 「このまま、能年玲奈を干しますか?」
(日刊サイゾー)
テレビ業界は、このまま女優・能年玲奈を干してしまうのか?
主要テレビ各局のプロデューサー、ディレクター、放送作家ら関係者8人に、非公式に「今後、能年を起用するつもりがあるか?」と聞いたところ、「はい」と答えた者はひとりもいなかった。
「『使うな』と圧力をかけられたわけじゃないですよ。ただ、なんとなく事務所でゴタゴタしているタレントを使って、余計な揉めごとを起こしたくないだけ。 所属事務所から起用の打診があったら、そのときに検討しますが、こちらから声をかけることはなさそう」
こう話すのは民放のドラマプロデューサー。
「自分がすべてキャスティングをしているわけではない」と前置きしながらも、能年の起用には否定的だった。
“本業”のドラマではなく、バラエティ番組での単発ゲストではどうかと聞いたが、こちらもディレクターが
「独立騒動の影響で、正直、今は使いにくいです。オファーしようにも、どういう契約状況かわからないですし」
と首を振った。みな、触らぬ神にたたりなしといった感じだ。
根強いファンがたくさんいる能年だが、まさにタレント生命の危機にある。
これを逆に取れば、勇気のあるプロデューサーが一人いれば、根強いファンのいる、国民的なネームバリューのある若手女優を独占できるという事ではないか。
出演交渉時に、他のオファーは受けませんという言質を取っておけばいい。
そんな虫のいい話はない? 上層部から止められる?
日本の芸能界(テレビ・映画・演劇関係者含む)は、なぜこんなにも臆病になってしまったのか?
彼らは一体何を恐れているのか?
彼らは、ひたすら波風を立てずに、自己保身に徹することしか頭になく、大手事務所の顔色ばかりを窺って、多少のリスクはあっても優秀な役者を起用して、少しでも質の良いコンテンツを創ろうという気概は残っていないのか?
「あまちゃん」が、あれほど大成功した理由は、ドラマ製作陣が、事なかれ主義を捨て、少しでも良いドラマ作りを優先して、未知の可能性に充ちた能年玲奈という女優をリスクを取って起用したからではないのか?
いやしくもコンテンツ製作者は、一部の利害関係者の意向ばかりを慮って、視聴者のニーズを無視することがあってはならない。
視聴者というとき、それは抑圧的なプロダクションの独裁を歓迎し、ひたいを地にすりつけて時の主人の前に平伏する安楽な連中、保守的な国民層を意味しない。
より良い作品のためのたたかいにおいて、視聴者とは、誰もが約束し、誰もが欺く、救われなかった膨大な大衆を意味する。
よりよい、もっと立派で正しい作品を求める人々、何年も何年も「芸能界の掟」という名の不正とごまかしに苦しんできたため正義の志に突き動かされる人々、彼らの文化的生活が大きく賢明な変化をするようにと願う人々、何事か、あるいは何者かを信じ、ことに自らを信ずるとき、そのような変化を獲得するために、彼らの持てる財力と活力をとことん投げ出す用意のある人々を意味する。
目的について語るとき、誠実であるための第一の要件は、誰もが敢えてしないこと、すなわち、絶対にはっきりと恐れずに言うことである。
すべてについて正しくすべての人を喜ばす奇跡を行おうとする職業テレビマンや芸能界マフィアたちは、必ず、すべてのことについてすべての人を欺く。
革命的なことを為そうとする者は、彼らの理想を大胆に宣言し、彼らの原則をはっきりさせ、彼らの意図を明らかにして、味方であろうと敵であろうと、何びとをも欺くことのないようにする。
われわれが依拠しなければならない人々は次のような人々である。
1万の若いAD、若手脚本家、監督志願者、ライター、芸能記者、デザイナー、アーチスト、俳優女優志願の若者たち、衣装スタッフ、ヘアメイク、美術、大道具、照明その他の番組製作陣、かれらは、働きたい気持ちに溢れ、希望に満ちて業界に入る。しかし、彼らを待ち受けているのは、行き止まりの路地であり、真実を語ることを禁ずる不正な圧力であり、正義を求めていくら訴え、叫び、哀願しても、それに耳を傾ける者がいない。
彼らは理不尽な抑圧に従わされる不幸というものを知っており、それ故にこそかぎりない勇気をもって闘うことができる。
この人たちの一生を通じての絶望の道は、欺瞞と偽りの約束でしきつめられている。この人たちに、われわれは、『君たちの必要なものをかならず君たちに与えよう』とは言わず、『むしろ、君たちは必要なものを持っている。全力を挙げてそのために闘おう、そうすれば自由と幸福は君たちのものになるだろう』と言おう・・・
倒れていった僚友のために、私は復讐をもとめはしない。かれらの生命は尊く、殺人者自身の生命でそれを購うことはできなかった。祖国のために倒れた者の生命を購うことのできるのは、血によってではない。祖国の人民の幸福だけがかれらにふさわしい手向けである。
わが同志たちは、死んでおらず、忘れられてもいない。彼らは今日、いつのときにもまして、生きている。同志を殺した殺人者どもは、同志の理念の勝利の精神が不滅であるのを見て驚愕するだろう。使徒マルティに語らせよ。
死者の墓にそそぐことのできる涙にはかぎりがある。
死者を嘆き悲しむためでなく、祖国とその栄光に対するかれらの無限の愛―よろめくことなく、希望を失うことなく、弱まることなき愛を思うため、われわれはその墓に詣でねばならぬ。
有難き受難者たちの腕に抱かれて
死は終わり、牢獄の壁は破れ―
ついに、死とともに、生ははじまるのだ。
Termino mi defensa, no lo haré como hacen siempre todos los letrados, pidiendo la libertad del defendido; no puedo pedirla cuando mis compañeros están sufriendo ya en Isla de Pinos ignominiosa prisión. Enviadme junto a ellos a compartir su suerte, es inconcebible que los hombres honrados estén muertos o presos en una república donde está de presidente un criminal y un ladrón.
これで弁護を終えようと思う。しかし私は、弁護士ならだれでもするように、被告の無罪釈放を訴える形で、私の弁論を終えるつもりはない。私の同志たちがピノス島の屈辱的な牢獄へ送られ苦しんでいる最中、私の無罪釈放を訴えることはできないのだ。私をピノス島に送り、同志たちと運命を共にさせよ。共和国大統領が犯罪者であり、国賊である時は、誠実な人々が死ぬか、囚われの身であることは当然の運命であろう。
En cuanto a mí, sé que la cárcel será dura como no la ha sido nunca para nadie, preñada de amenazas, de ruin y cobarde ensañamiento, pero no la temo, como no temo la furia del tirano miserable que arrancó la vida a setenta hermanos míos. Condenadme, no importa, La historia me absolverá.
私は牢獄が、ほかの人たちと同様に過酷で、脅迫、卑劣、意気地なしの残忍さであふれていることを知っている。しかし私は、70名の同志の息の根を止めた憐れな暴君の怒りを恐れないのと同様に、牢獄を恐れない。
私を断罪せよ。
どうということはない。
歴史は私に無罪を宣告するであろう。