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この世界のさらにいくつもの片隅に(2)

※ネタバレありのため未見の方は要注意

 

 

2016年11月に前作を見たときには冒頭から何かに圧倒されて訳が分からないままに気が付くと終わっていた、という稀有な体験をした。3年ぶりの今作は、冒頭で再び持っていかれそうになってしばらくは大変だったが、何とか落ち着いて最後まで見ることができたと思う。それでも時々波のように押し寄せる涙腺決壊の圧力には勝てなかった。

今作の最大の見所は言うまでもなく、「リンのエピソード」が付け加わっていることで、それ以外にも前作にはなかった場面が追加されたり修正が加えられたりしている。マニアックな読者ならそれらをチェックするだけでも多くの喜びが得られるだろう。

前作でリンの物語を省いたのは、ただでさえ沢山の要素が盛り込まれたストーリー全体のバランスを考えてのことだったと思うが、実に上映時間2時間40分近くに及ぶ今作が実現したのは、「完全版が見たい」という熱心なファンの声に後押しされたという部分が大きい。その意味で、この作品は「草の根パワー」によって作られたものであると片渕監督は語っている。

「リンのエピソード」の核心部とは、周作がすずを嫁にもらう前に、遊郭で客として出会ったリンを娶ることを本気で考え、周囲の説得により諦めたという事実を、すずが偶然に知ってしまうというものである。

偶然に遊郭に迷い込んだすずにリンが声をかけるところから二人の交流は始まる。もちろんこの時点ですずは周作とリンの関係など知らない。そもそも、リンがどういう女性であり、遊郭がどういう所なのか知っているのかどうかすら怪しい(さすがにそれはないか)。

リンの境遇をすずがどう捉えていたかによって、このエピソードの持つ陰影の深みは異なってくるだろう。すずはその後もリンを訪ね、病院で検査をしたが妊娠ではなかったと告げている。このときの二人の会話は、無邪気と言えば無邪気だし、哀しいと言えば哀しい。だがおそらく当事者の二人は、その哀しみを自覚してはいない(この「自らの置かれた立場に対する自覚の欠如」はこの作品全体を覆う大きなテーマでもありうる)。

すずが周作とリンとの過去について知るのはその後である。すずはある具体的な物的証拠によりその事実を確信するのだが、この映画では原作にないエピソードが挿入されている。すなわち、隣人の夫婦が自宅で周作とすずの夫婦仲について語り合うシーンの中で、周作が上司に遊郭に連れていかれ、そこで客として付いたリンに惚れこんでしまい、一緒になると言い張ったこと、それを諦めさせる条件として、広島市の「浦野すず」という娘を嫁にもらうと周作が主張したという事情が明らかにされるのである。

原作からも、そのようないきさつを推測することは十分に可能だ。しかし、わざわざ映画にそのようなシーンを挿入したことで、見る者には作品中の「リンのエピソード」の重要性が強調される効果を持つ。

もう一つ、原作にはない(と見ながら思ったのだが勘違いか、後で確認する)場面として、周作が、リンの着物の柄と同じ模様の茶碗についてすずに訊ねられて、「嫁にもらおうと思った人にあげるためのものだった」と自白するシーンがある。周作は自分の発言がすずに与える効果にどこまで自覚的だったのか必ずしも明らかではない(描かれ方からすればほとんど無自覚であったと思える)。だが、すずはこの発言から、リンと周作との深いつながりをますます痛感するようになるのである。

周作のすずに対するある種の「冷淡さ」は、水兵となった水原を自宅に招いたときのエピソードで、前作においても描かれている。前作で、すずは、幼馴染の水原と最後の夜を過ごさせようという周作の「配慮」に対して大いに腹を立てる。それはそれで夫婦の絆の深まりを示すエピソードとして成立している。しかし今作では、リンとの関係があるために、事情はより複雑である。作中では、夫婦の心のズレを示すものとして夜の行為の場面までもが描かれる。

すずは、周作は本当は自分を愛していないのではないか、今もリンに心残りがあるのではないか、との疑念を捨てきれていない。すずが、雪の中、遊郭を訪れ、リンに茶碗を渡そう(返そう)とする場面は、すずの中では無自覚であったにせよ、明らかに親切心からの行為ではなく、昔の女に対する復讐(或いは切羽詰まった問い掛け)の意味を持つ行為である(のんの演じるすずのキャラクター性によって映画ではその意味は暈されてしまっている)。

このとき、リンは不在であり、代わりに茶碗を受け取ったテルという娘の口から語られるエピソードは、すずの深層心理に影響するに違いない内容である。すなわち、テルの客となった若い青年(将校?)が思い詰めて、テルと一緒に川に飛び込み心中を図ったというのである。

テルと若い将校の心中未遂は、周作とリンとの間にも起こり得た事件だった。それは周作が橋の上で、「選ばなかった道」とすずに告げている一つの可能性だったのである。しかし、作品中では、すずはテルの語りを聞いて何かを感じたようには見えない。すずは酷い咳に苦しみ凍えているテルに同情し、無邪気に南島の絵を雪の上に描いて見せるだけである。

このように考察を進めていくと、ある重要な感想に必然的に行き当たる。

つまり、この「片隅に」完全版は、前作とはまったく異なる作品であるだけではない。前作では「すず」のキャラクターを完璧に体現していた「のん」の演技が、今作においては、作品の真に表現しようとしている世界とズレてしまっているのではないか? という疑問である。

リンとのエピソードを省いた前作においては、すずは、のんが言う所の、「幼い子供の心のままで嫁に来てしまい、悪戦苦闘する女性」でよかったのだが、今作においては、すずはそこまでピュアな娘ではない。夫の過去の不義を疑い、物語の最終盤まで周作とリンとの関係性について思いあぐねている「妻(おんな)」なのだ。

のんはこの点について、あるインタビューの中で、「すずさんは、リンに嫉妬しているのではなく、むしろリンという大切な友人と仲の良かった周作に嫉妬していたのだと思った」という解釈を語っている。作品解釈に最終的な正解などというものはないのだろうし、のんの解釈はそれはそれでありうるものかもしれない。だが、この作品において、リンのエピソードに込められた意味がそのようなものだとしてしまって、果たしてよいのだろうか? 公開されて間もない現時点において、今作に対する評価はまだ定まっているとは言い難いが、無条件に手放しの大賛辞を贈られた前作と今作との間に、今後評価の「温度差」が生じるとしたら、その理由の一つは、この点についての見る者の(必ずしも意識されることのない)「違和感」にあるのではないか、という気がする。

もう一つ重要な場面は、昭和20年4月の「花見」のシーンである。

ここですずはリンと再会し、リンはすずに茶碗の礼を言う(ところで、出会いの場面と同じくここでも声をかけるのはリンの方であり、すずが茶碗を渡しに訪ねて行ったときには会えなかったという点は示唆的である)。そしてリンはテルが死んだことを告げる。桜の木の上で語り合う二人の姿は、とても抒情的で美しい。個人的に、今作で一番涙が出たのはこのシーンであった。

リンは、すずが茶碗を返しに来たことの意味を(仮に無意識的にであったにせよ)理解している。それはすずに対する次の言葉から明らかだ。「死んだら、過去にあった秘密も全部なかったことになる。それはそれでゼイタクなことかもしれんよ」。「空襲があったら、きれいな死体から早く片付けてもらえる」と語るリンの佇まいは、既に来るべき死の予感を纏っている。それに対してすずは、「自分は生きたい」と明確に自覚する。

桜の木の上で語り合った後、地面に降りて歩み始めたリンは周作とすれ違い、屈託なく挨拶を交わす(正確に言えば、周作に挨拶するリンの後姿をすずの視線で観客が眺める)。このシーンは原作にはない。

リンはもう死を覚悟しているから、すずや周作の側(生者の側)にはいない。だから周作に屈託なく挨拶することができた。だが生に執着するすずは、周作の心の底にある想いが何であるかにまだ拘っている。義姉の子を自分の不注意(厳密にいえばすずの過失とはいえない)で死なせてしまった後、嫁ぎ先を離れ、実家である広島に帰るかどうかについて苦悶した上、広島に帰る決断をするのである。あの運命の日にすずが「間に合わなかった」のは偶然に過ぎないのだが、すずはあの自覚によって生き延びる運命を背負っていたのだとも解釈できる。

すずに「この世に居場所がなくなることなんてそうそうありゃせんよ」と諭したリンは若くして死に、「リンさんには何一つ勝てない気がする」と呟いたすずが生き延びる。

前作「この世界の片隅に」は、生き延びた者たちの視点から見た物語であり、生きることへの肯定と希望が純粋に表現されていた。

しかし、今作は、リン(そしてテル)という「死者の視点」が物語の中に入り込んでいるという意味において、前作よりも重層的であり、より深い解釈が可能である。すべての要素を盛り込んだ分、当然ながら、より原作の作品世界に近づいているが、その結果として、すずを演じた「のん」の個性との乖離が生じてしまったのではないか、とも感じた。これを作品にとって否定的な要因とみなすかどうかは、個々の鑑賞者に委ねられているのだろう。