ヴェニス (生野幸吉訳)
橋のたもとに私はたたずんだ、
先ごろ、とびいろの夜に。
遠くから唄声がきこえてきた。
金いろの雫となって唄は湧き、
ふるえる水面をわたり、去った。
ゴンドラの群れ、ともし灯、
そして音楽---
よいしれたように唄声は、薄明にただよい出ていった、、、
わがたましい、それはたてごとの奏で、
見えざるものに触れられ、奏でにつれて
たましいはひそやかにゴンドラの唄をうたった。
眼もあやな至福の想いにおののきながら。
----聴き入るひとは、あったか?
ニーチェが発狂してトリノからヴァーゼルへ送られる夜中の車中で、彼は眼がさめると何か美しい節でしきりに歌っていたが、のちにそれがこの詩であることがわかったと、彼をトリノまで迎えに行ったオーファーベック教授が書簡に残している。
1889年1月、すでに精神の崩壊したニーチェは、この「ヴェネツィアのゴンドラの歌を弱々しい声で、妙な節をつけて歌いながら街を歩いていた」ということである
(エリザベート・ニーチェ『孤独なるニーチェ』)